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グロティウス

17世紀前半、三十年戦争期のオランダの法学者。自然法・国際法の理論をうちたて「自然法・国際法の父」と言われている。

グロティウス
Hugo Grotius(1583-1645)
 17世紀のオランダのライデンで生まれ、多才な能力を発揮し、法学者としてだけでなく、政治や外交にも関与した。22歳で東インド会社を弁護して『海洋自由論』を発表。その後も歴史学者、詩人としても活躍、万能人であった。このような天才であったグロティウスだが、36歳の時、オランダの政争に巻き込まれ、投獄される。後に脱獄してパリに亡命した。おりからヨーロッパで繰り広げられていた三十年戦争の災禍を見て、1625年『戦争と平和の法』を発表し、戦争の防止や収束のためには、自然法の理念に基づいた国際法が必要であると主張した。これは、後の国際法の成立に大きな影響を与え、『海洋自由論』の思想も合わせてグロティウスは「自然法・国際法の父」と言われている。

オランダの宗教対立

 グロティウスの巻き込まれた政争とは実質はカルヴァン派内の宗教対立であった。オランダはカルヴァン派が優勢であったが、予定説を巡って厳格に解釈して一切を神の選択に委ねるという主流派(オラニエ派)と、緩やかに解釈して人間の自由意志を重視するアルミニウス派が対立するようになった。各州の議会の中心勢力である都市貴族層の中にはアルミニウス派の影響力が強く各州の自由を主張したが、主流派は厳格なカルヴァン主義で連邦の宗教を統制しようとした。主流派はオラニエ家第2代総督マウリッツと結んでついに1617年の連邦議会で教義の統一を図った。その結果はオランダ連邦7州の4対3で主流派が勝利を占めた。ホラント州はオルデンバルネフェルトを中心に連邦は信仰まで統制すべきでないと反対した。グロティウスもそれに同調した。主流派はアルミニウス派を裁判にかけ、オルデンバルネフェルトは死刑となった。グロティウスはその時終身禁固の判決を受けたが、脱獄して亡命したのだった。

Episode 14歳で大学を卒業した神童グロティウス

 グロティウスはオランダのライデン市の名門グロート家に生まれ、名前はフーゴーといった。たいへんな神童で、8歳の時ラテン語の詩を書き、11歳で当地の大学に入学した。ギリシア語も学び、数学、哲学、法律の論文を書いて、14歳で大学を卒業。名前もラテン風にグロティウスと名乗った。15歳でオランダの首相の随員としてパリを訪れ、アンリ4世はその才能に驚嘆し、「オランダの奇蹟だ」といったという。16歳で弁護士として自立し、名声を博した。

戦争と平和の法

1625年に刊行されたオランダのグロティウスの主著。世界最初の国際法の提唱となった。

 オランダの思想家グロティウスの主著。三十年戦争の最中、その惨禍を見たグロティウスが、人類の平和の維持の方策を模索し、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いた。この書は出版当初から大きな反響があり、三十年戦争の当事者のひとりグスタフ=アドルフも読んだという。そして、これが世界で最初の国際法の提唱となった。
グロティウスの「緩和」思想 「ヨーロッパの三十年戦争中に著されたグロティウスの『戦争と平和の法』(1625年)は、この戦争において野蛮人でも恥とするような戦争に対する抑制の欠如がみられるとし、戦争での残虐行為に対する緩和(テンペラメント)を説いたのである。そして、彼はなお正戦論に依拠しつつも、自己の側に不正があるかも知れない「克服しえない無知」による場合は、交戦者双方とも正当と見なされねばならないとした。これは、現実に対する正戦論の適用の限界を示すものであった。」<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.4>
 ここでいう「正戦論」とは、中世ヨーロッパの封建領主であったカトリック教会のもとで、トマス=アクィナスの『神学大全』に代表される神学者の位置づけた、「正しい戦争」とは「君主のみが戦争宣言の資格を持つこと、原因が正当でなければならないこと、正しい意図でおこなわなければならないこと」の三要件を満たす必要があるという考えである。中世の戦争ではこの正戦論が適用されていたが、スペインの新大陸のインディオとの戦争はそれを満たしているか、ラス=カサスの批判などがあり、大問題になった。
 グロティウスのいう「克服しえない無知」を媒介とする戦争行為における「緩和」の理論は、近代の戦争に適用される「戦争法」の内容を予見していた。 → ウェストファリア条約  主権国家体制  フランス革命戦争  ハーグ万国平和会議