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グロティウス

17世紀前半、三十年戦争期のオランダの法学者。自然法・国際法の理論をうちたて「自然法・国際法の父」と言われている。主著は『海洋自由論』(1609年)と『戦争と平和の法』(1625年)。

グロティウス
Hugo Grotius(1583-1645)
 フーゴー=グロティウス(1583-1645 Hugo Grothius はラテン語。オランダ語ではヒュホ=デ=フロート)は、オランダのデルフトで生まれ、11歳でライデン大学に入学し、多才な能力を発揮し、法学者としてだけでなく、政治や外交にも関与した。スペインからのオランダ独立戦争(1568~1648)のさなかであり、スペイン(及びスペインに併合されたポルトガル)とのアジアと新大陸での商圏での衝突が繰り返していたオランダ東インド会社を弁護して1609年『海洋自由論』を26歳で発表して注目を集めた。その後も法学者・外交官としてだけでなく、歴史学者、詩人、劇作家としても活躍、万能人であった。
 このような早熟の天才であったグロティウスだが、1618年、36歳の時、オランダのカルヴァン派内部の宗教対立から起こった政争に巻き込まれ、投獄される。この年は、ドイツで三十年戦争(1618~1648)が始まった年であった。グロティウスは1621年に脱獄し、パリに亡命してルイ13世の保護を受けることになった。この年、フランス(ブルボン朝)はスペイン(ハプスブルク家)との戦争に踏み切り、三十年戦争に巻き込まれることとなった。戦争が長期化する中、1625年にグロティウスは亡命先のパリでルイ13世の諮問に答えて『戦争と平和の法』を書き、戦争の防止や収束のためには、自然法の理念に基づいた国際法が必要であると主張した。これは、後の国際法の成立に大きな影響を与え、『海洋自由論』の思想も合わせてグロティウスは「自然法・国際法の父」と言われている。その後、グロティウスはオランダに戻ることなく、スウェーデンの外交官としてパリで活躍した。オランダ独立戦争・三十年戦争は1630年代から講和に向かい国際会議が始り、グロティウスも講和交渉に加わることを望んだが、その機会はおとずれず、ウェストファリア講和条約締結(1948年)の前の1645年にロストックで死去した。<柳原正治『グロティウス』2000 清水書院 などによる>

Episode 14歳で大学を卒業した神童グロティウス

 グロティウスはオランダのライデン市の名門グロート家(オランダ語ではフロート)に生まれ、名前はフーゴーといった。たいへんな神童で、8歳の時ラテン語の詩を書き、11歳で当地の大学に入学した(*)。ギリシア語も学び、数学、哲学、法律の論文を書いて、14歳で大学を卒業。名前もラテン風にグロティウスと名乗った。15歳でオランダの首相の随員としてパリを訪れ、アンリ4世はその才能に驚嘆し、「オランダの奇蹟だ」といったという。16歳で弁護士として自立し、名声を博した。
(*)もっとも当時のヨーロッパの大学への入学年齢は、現在よりはるかに若く、例えば1595年のレイデン大学入学者150名のうち約三分の一は12歳から16歳までの少年たちであった。<柳原正治『前掲書』p.27>

オランダの宗教対立

 グロティウスの巻き込まれた政争とは実質はカルヴァン派内の宗教対立であった。オランダはカルヴァン派が優勢であったが、カルヴァンの唱えた予定説を巡って厳格に解釈して一切を神の選択に委ねるという主流派(ホマルス派)と、緩やかに解釈して人間の自由意志を重視するアルミニウス派が対立するようになった。ホマルスもアルミニウスも共にライデン大学の教諭であり、純粋な信仰論争であったが、次第に政治的対立と結びついていった。各州の議会の中心勢力である都市貴族層の中にはアルミニウス派の影響力が強く各州の自由を主張したが、主流派は厳格なカルヴァン主義で連邦の宗教を統制しようとし、アルミニウス派の寛容はスペインとの妥協につながるとして反対した。主流派はオラニエ家第2代総督マウリッツと結んでついに1617年の連邦議会で教義の統一を図った。その結果はオランダ連邦7州の4対3で主流派が勝利を占めた。ホラント州はオルデンバルネフェルトを中心に、連邦は信仰まで統制すべきでないと反対した。グロティウスもそれに同調していた。1619年、総督マウリッツはアルミニウス派を裁判にかけ、オルデンバルネフェルトは死刑の判決によって処刑された。グロティウスはその時終身禁固の判決を受けマース川に浮かぶ小島のルフェスティン城に収監されてしまった。

Episode グロティウスの脱獄と亡命

 当時の受刑者は妻の同伴が許されていた。グロティウスの妻マリアは週に数度、川向こうの町に買い物に出ることができた。またグロティウスには研究に必要な書物が大きな長櫃に入れて届けられていた。マリアは、この長櫃を使って夫を脱獄させることを思いつき、夫が二時間も長櫃に閉じこもっていられるように練習させた。
(引用)対岸のホルクム市が年に一度の縁日で賑わっていた1621年3月22日、計画は実行に移された。グロティウスのベッドは、まるで本人が横たわっているかのように盛り上げられ、彼の衣服がその上に置かれる。下着だけになったグロティウスが長櫃にもぐり込み、妻は運搬役の兵士たちをよぶ。荷物に違和感を覚えて不審がる兵士を、機転を利かせて煙に巻いたのは、長櫃に付き添った勇敢なお手伝いエルシェであった。<桜田美津夫『物語オランダの歴史』2017 中公新書 p.67>
 ホルテム市の知人宅で長櫃から出たグロティウスは、大工に変装して町を脱出、最終的にはパリに亡命した。グロティウスが脱獄に使ったという長櫃がアムステルダム国立美術館に置かれている。ところが同じくその時の長櫃だというのが当のルフェスティン城などの各地にいくつも展示されている。本物はそのいずれかなのか、またはすべてが偽物なのか。今ではわからなくなっているという。

海洋自由論

1609年に刊行されたオランダのグロティウスの主著。スペイン・ポルトガルが海洋を二分して支配することを論駁し、自然法の立場から。海洋航行の自由・交易の自由を論じた。

 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)は1602年オランダ東インド会社を」設立し、アジア各地との交易を積極的に開始した。それはすでにアジアに進出していたポルトガル(およびポルトガルを併合したスペイン)との激しい競争となり、宗教的対立から始まったオランダ独立戦争は両海軍がアジアの各地で衝突する経済戦争の様相となった。
 1609年にスペインとの間で「十二年間休戦条約」が成立すると、海上貿易で覇を競うオランダ、スペイン、イギリス、フランスなどの諸国間に、海上交易をめぐる一定の法的枠組みを必要とする要請が生じた。そのような状況の中で、同じ1609年にグロティウスはオランダ東インド会社の依頼を受け、『海洋自由論』(自由海論)を公刊して、オランダの立場を明らかにした。
 グロティウスの『海洋自由論』は副題を「東インドとの交易に参加するオランダ人の権利についての論攷」としているとおり、スペイン(およびポルトガル人)の主張する東インド貿易と航路の独占に対して論駁し、オランダの持つアジアとの航行・交易の自由を弁護するという明確な目的をもって刊行された。
 グロティウスは序文において「オランダとスペインの間で現在論争となっている問題は、広大で無際限の大洋を一国の領域とすることができるか、ある国民が他の国民同士の交易や交通を禁止できるか、自分の物でない物を他の人に与えることができるか、他人の物を発見(先占)という根拠で取得できるか、そして明白な不正が長い間慣習として行われてきたことによりなんらかの権利ととなることができるか、ということであるとされている。これらの問題が従来の学説では解決できない場合は、全人類からなる普遍的人類社会に共通の法、つまり万民法(ユース・ゲンティウム)に依拠しなければならない。その万民法とは、自明で不変の第一の万民法(自然法)とみなされる。」と述べた。
ポルトガル人の独占を否定 『海洋自由論』本文においては、航行の自由と交易の自由にわけて、ポルトガル人の独占権を否定した。ポルトガル人の主張する独占権は、他に先駆けて「先占」したこと、1493年に教皇アレクサンドル6世の教皇子午線によって贈与されたものであること、すでに時効が成立していることの三点を論拠としていた。まず海洋は空気と同じく人類共有であり「先占」することはできないとし(ただし内海、湾、海峡、海岸は含まれない)と論じた。さらに教皇の贈与については教皇は全世界の世俗的支配者ではないから、海洋を贈与する権利はないと断じた。教皇の贈与権を否定したこの書は翌年、ローマ教皇庁によって禁書とされた。第三の論拠である時効・慣習については、君主間の取り決めには時効は適用されないこと、ポルトガルの東アジアへの進出はせいぜい100年足らずであることから慣習とはいえない、と論じた。結論として、ポルトガル人の主張する、先占(および発見)、教皇の贈与、時効・慣習という根拠はいずれも妥当でなく、結局、第一の万民法上、ポルトガル人は東インドへいたる大洋を航行する権利を独占することは出来ないとした。
イギリスの反論 グロティウスの海洋自由論に対してただちに周辺国からの反論がなされた。特にイギリスのセルデンは、ジェームズ1世、次のチャールズ1世の意向を受け、『閉鎖海論』を著し。グロティウス批判を展開した。セルデンは、海は陸地と同様に私的所有権の対象となるという一般論を展開し、エリザベス1世時代以来の歴史的な「イギリスの海」に対する保護・統治・制海権、航行・漁業の許可、捕獲権などを有することを主張した。
その後の海洋自由論の展開 イギリスとオランダは1651年の航海法をめぐって17世紀後半に3次に亘る英蘭戦争を戦った。また主権国家体制の成立にともない、領土・領海の概念が一般化し、海洋自由論も大きな制約を受けることになった。グロティウスも沿岸部、海峡、湾などの領有は否定していなかったが、19世紀には沿岸のほぼ三海里(マイル)を領海とし、その外の海域を公海とする考えが一般化した。ところが1960年代以降、沿岸国権限を拡大しようとする動きが顕著となり、1994年に発効した国連海洋法条約によって、領海は12海里に拡張され、さらにその外側の200海里までを排他的経済水域として設定することが認められた。これによって公海部分は大幅に減少し、世界の海は領海、排他的経済水域、公海という三つの部分に分割され、グロティウスが一貫して主張した大洋の自由は、これにより大きく損なわれることになった。<柳原正治『グロティウス』2000 清水書院 p.106-125>

戦争と平和の法

1625年に刊行されたオランダのグロティウスの主著。世界最初の国際法の提唱となった。

 オランダの思想家グロティウスの主著。三十年戦争の最中、その惨禍を見たグロティウスが、人類の平和の維持の方策を模索し、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いた。この書は出版当初から大きな反響があり、三十年戦争の当事者のひとりグスタフ=アドルフも読んだという。そして、これが世界で最初の国際法の提唱となった。
グロティウスの「緩和」思想 「ヨーロッパの三十年戦争中に著されたグロティウスの『戦争と平和の法』(1625年)は、この戦争において野蛮人でも恥とするような戦争に対する抑制の欠如がみられるとし、戦争での残虐行為に対する緩和(テンペラメント)を説いたのである。そして、彼はなお正戦論に依拠しつつも、自己の側に不正があるかも知れない「克服しえない無知」による場合は、交戦者双方とも正当と見なされねばならないとした。これは、現実に対する正戦論の適用の限界を示すものであった。」<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.4>
 ここでいう「正戦論」とは、中世ヨーロッパの封建領主であったカトリック教会のもとで、トマス=アクィナスの『神学大全』に代表される神学者の位置づけた、「正しい戦争」とは「君主のみが戦争宣言の資格を持つこと、原因が正当でなければならないこと、正しい意図でおこなわなければならないこと」の三要件を満たす必要があるという考えである。中世の戦争ではこの正戦論が適用されていたが、スペインの新大陸のインディオとの戦争はそれを満たしているか、ラス=カサスの批判などがあり、大問題になった。
 グロティウスのいう「克服しえない無知」を媒介とする戦争行為における「緩和」の理論は、近代の戦争に適用される「戦争法」の内容を予見していた。 → ウェストファリア条約  主権国家体制  フランス革命戦争  ハーグ万国平和会議