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カルヴァン派

キリスト教のプロテスタント(新教)の中のカルヴァンの教えを支持する各派を総称してカルヴァン派ということがある。宗教改革時代にはカトリック(旧教)に対して改革派と言われ、ルター派とともにプロテスタント(新教)の一部となった。

 宗教改革の中で、カルヴァンの教説を信じる信仰の系列は、スイスからフランス、ネーデルラント、イギリス(イングランドとスコットランド)に広がり、さらにアメリカ大陸にひろがった。しかし、カルヴァンは、自らの教えを新しい宗派とされることを否定したので、宗教改革時代には彼らはカルヴァン派ではなく、広く改革派と言われた。現在ではルター派と並んで、プロテスタントに分類されており、世界史上は「カルヴァン派」という表現も用いられている。

西ヨーロッパに広がる

 16世紀の中ごろ、ルターの聖書主義、福音主義などとともにカルヴァンの予定説などの教えはヨーロッパ各地に広がって改革派とも言われたが、特にカルヴァンの教えは地域によって、異なった呼び方が行われるようになった(つまり、共通してカルヴァン派と言われることはなかった)。フランスではユグノー、オランダではゴイセン(正しくはヘーゼン)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、イングランドではピューリタン(新教徒)と言われた。カルヴァンの教えが西ヨーロッパの経済先進地域にひろがったことは、その予定説とともに注目される。

カルヴァン派に対する弾圧と公認

 西ヨーロッパ各地のカルヴァン派は、信仰の自由とともに政治と経済においても自立を求め、宗教統制を強めようとする権力者と戦った。それが17世紀におけるイギリスにおけるピューリタン革命、16~17世紀のスペインの支配に対するオランダ独立戦争であり、その戦いを担っていったのは、カルヴァン系の改革派の人びとであった。フランスでは激しい宗教内戦のユグノー戦争(1532~98年)の末に1598年のアンリ4世によるナントの王令でカルヴァン派の信仰が認められた。
 ヨーロッパ全体での最後の宗教戦争とも位置づけられている三十年戦争(1618~48)の講和条約として、1648年に国際条約として締結されたウェストファリア条約で宗教対立も最終的に解決した。ウェストファリア条約では、1555年のアウクスブルクの和議でルター派の信仰が認められたことを確認し、同時にカルヴァン派の信仰も認められた。
 しかし、フランスではその後、ブルボン王朝絶対王権の強化に伴い1685年にルイ14世がナントの王令を廃止し、多くのカルヴァン派は国外に逃れた。その結果、フランスではカトリックの優位が確定し、ヨーロッパのプロテスタントはオランダ、北ドイツ、北欧がその分布圏となり、カルヴァン派から分かれたプロテスタントの多くは北米大陸へと広がっていった。

カルヴァンの予定説の意義

 20世紀ドイツの社会学者マックス=ウェーバーは、主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)において、西ヨーロッパにおいて発展した資本主義経済の理念的な背景となったのが、カルヴァンの『予定説』であると分析した。これはカルヴァンおよびカルヴィニズムに対する歴史的意義づけとして現在もよく論及される。
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