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ライプニッツ

17世紀ドイツの科学者、哲学者。微積分法を開拓し、哲学では単子論を説いた。ドイツのマインツ大司教、ハノーファー選帝侯に使える外交官としてはルイ14世やピョートル1世と交渉した。

 ライプニッツ Leibniz 1646-1716 は、17世紀の科学革命で活躍した科学者、哲学者の一人。ドイツ人で政治や外交にも携わり、マインツ大司教(選帝侯)やハノーファー選帝侯に仕えた。数学者としても重要で、1684年に微積分法の論文を発表し、ニュートンとその先取権をめぐって争うこととなった。ライプニッツは1676年頃その方法を創出し、ニュートンは71年にすでにその着想を得ていたので、ニュートンの方が早かったとされているが、ライプニッツはニュートンとは全く別にその体系をつくりあげた。現在用いられている微積分の記号はライプニッツが考案したものである。哲学ではモナド(単子)論を提唱し、予定調和説でも知られる。また、ロシアのピョートル1世に対し「世界アカデミー」の設立を働きかけたことや、ルイ14世にスエズ地峡での運河開削を提案したこともあった。

単子論(モナド)

 単子(モナド)とは、それ以上分割不可能な、事物の究極的な要素のこと。ライプニッツは、それをもっとも単純であり、広がりを持たず、相互に作用を及ぼすことはないが、それ自体が能動的な実体であり、自己発展を遂げ、宇宙を構成していると考えた。それらが宇宙で安定的に存在するのは神によって予め定められた調和、つまり「予定調和」であるとして、神の存在をそこに見いだした。ライプニッツの単子論は、中世のスコラ哲学以来の神の実在をどう証明するか、という課題と、近代科学の物質観とを融合させようとした試みでもあった。

外交官ライプニッツ

 数学における微積分法の発見、哲学における単子論の提唱で知られるライプニッツであるが、もう一つの顔は激動の17世紀ヨーロッパに生きた外交官であった。マインツ大司教(選帝侯)に仕えて外交使節としてフランスに向かい、ルイ14世の野心をエジプトに向けさせてドイツの危機を避ける工作をした。その工作は失敗したが、パリ滞在中にオランダのホイヘンスと知り合い、数学の研究に没頭するようになり、1675年には微積分法の基本定理を発見した(しかし、公表は1684年だった)。1676年、マインツ大司教が亡くなったのでパリを離れ、ハノーファー選帝侯に仕えることになった。このハノーファー公がイギリスのアン女王の死去に伴い、ジョージ1世としてイギリス王位を継承し、ハノーヴァー朝を開いた。このときもライプニッツは画策に奔走した。しかし、ジョージ1世はライプニッツをロンドンには迎えなかったので、このころ微積分法の先取権を争っていたニュートンと直接話し合う機会は生まれなかった。<小山慶太『科学史人物事典』2013 中公新書 p.44-45>

Episode スエズ運河のアイデアをルイ14世に提出

 ライプニッツはフランスのブルボン朝、ルイ14世(在位1643~1715)と同時代の人物であった。彼は微積分法の研究や単子論で知られた哲学者、神学者であるが、政治から離れて思索するだけの人物ではなかった。1671年にルイ14世に対してエジプト遠征とスエズ運河の開鑿を進言している。彼の提言は、キリスト教国は不信心者の国オスマン帝国に向けられるべきであり、フランスにこそその任務と力があるというものであった。そしてオスマン帝国との戦いではエジプトを占領することが必要であり、そこに運河を作りインド洋との貿易を押さえることができると説いた。ライプニッツは地理的・地質学的知識があったわけではなく、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿の大建築事業を見て、スエズ運河も不可能でないと考えたのだった。そしてそのねらいは、ルイ14世の軍事侵略の矛先をオスマン帝国に向け、ドイツやオランダへの攻撃を逸らそうと言うことにあった。
 ライプニッツは72~73年、パリに滞在してコルベールと知り合い、彼を通じて盛んに自説をルイ14世に説いた。しかし、ルイ14世は、オランダ侵略戦争(1672~78)、ファルツ戦争(1688~97)へと立て続けにヨーロッパでの侵略戦争を強行する。ライプニッツの提言は採用されなかった。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮新書(1991 朝日文庫で再刊) p.110-116> → スエズ運河