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ウェストファリア条約

1648年、三十年戦争の講和条約。最初の近代的な国際条約とされ、主権国家間の国際関係である主権国家体制が成立したという意義がある。

 1648年ウェストファリア会議で成立した、三十年戦争の講和条約。世界最初の近代的な国際条約とされる。ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されることになったが、皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどのため、1644年にようやく始まった。会議の場所が二カ所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市)という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからであった。いずれにせよ、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初の大規模な国際会議であった。会議は45年から実質的な討議に入り、延々と3年を要して、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争を終結させた。

条約の内容

 次の5点に要約することが出来る。
  1. アウクスブルクの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。またカルヴァン派の信仰も認められた。(宗教戦争の終結)
  2. ドイツの約300の諸侯は独立した領邦となる(それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ主権国家であると認められる)。 → 神聖ローマ帝国の実質的解体
  3. フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。
  4. スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
  5. オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)と、スイスの独立の承認
フランス・スペイン間のピレネー条約 なお、フランス(ルイ14世・マザラン)とスペイン間の戦争は継続され、両者の講和は遅れて1659年ピレネー条約で成立した。ピレネー条約でフランスはアルトワを獲得、ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリー=テレーズの婚姻を取り付けた(これは後に重要になる)。またこの時イギリスはピューリタン革命の最中であったので、この条約には関わっていない。

条約の意義

POINT 次の3点に要約することが出来る。
  1. 宗教改革以来の新旧両派の対立を終わらせ、ヨーロッパ中央部を人口及び資源の面でカトリック圏とプロテスタント圏に均等な勢力圏を構成させ、新旧両教派の勢力均衡を図った。
  2. この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとそのほぼ東方を領有することになった。そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われている。
  3. また、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、ドイツの領邦はそれぞれ独立した領邦国家として認められた。これによって中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。
 → 主権国家体制
 三十年戦争の講和会議であるウェストファリア会議で成立した、ウェストファリア条約の意義は上の三点に要約される。それらをさらにまとめて言えば、ウェストファリア条約によって「西欧国際体制」ができあがった、ということである。

西欧国際体制

 西欧国際体制 western state system とは、一般に、主権国家の概念の確立・国際法の原則・勢力均衡の国際政治、の三要素からなる、近現代の国際関係の特質である。その三要素は次のように説明できる。
  • 主権国家 内部においては国家権力が最高の力として排他的にな統治を行い、かつ対外的には外国の支配に服することのない独立性を持った国家である。主権国家においては、国家主権の及ぶ範囲の「国民」と「領土」が次第に明確にされる。
  • 国際法 主権国家の利害が対立して戦争となった時、国家間の関係を律する法が必要であると認識されるようになった。西欧国際体制のルールとしての国家間の法律が国際法であり、三十年戦争の最中にグロティウスの『戦争と平和の法』などで提唱された。
  • 勢力均衡 国際法だけで主権国家間の利害を調整できない場合、戦争を回避する手段として、ある国家だけが絶大な力を持つことがないように同盟関係を築いて、国家間の力の均衡(バランス・オブ・パワー)を図った。
※ただし、17世紀のウェストファリア条約の段階は、主権国家が成立していたが、それは各国の君主が絶対的な国家主権を行使する「絶対主義」(絶対王政)であり、明確な国民意識や国境線で区切られた領土、傭兵ではない国民軍、さらに国民主権という概念やその政治機構などを特質とする「国民国家」が形成されるのは18世紀後半のフランス革命に代表される市民革命の時期を待たなければならない。また、欧州の範囲にとどまっていればこの体制は有効だったが、19世紀後半から植民地問題が加わり、帝国主義段階となると国家の暴走を止められなくなり、また非ヨーロッパ諸国が台頭してくると、この体制は機能しなくなる。<木畑洋一『国際体制の展開』世界史リブレット54 1997 山川出版社 p.5-7>

ウェストファリア・モデル

 マンフレッド・B・スティーガー『グローバリゼーション』2005が引用する、政治学者ディヴィット・ヘルドがまとめた「ウェストファリア・モデル」の本質を要約した事項は次のようなものである。
  1. 世界は領土をもつ主権国家によって構成され、分割されており、これに優越する権威は認めない。
  2. 立法、紛争解決、法執行の過程は、おおむね個々の国家に任される。
  3. 国際法は共存のために最低限必要なルールの確立を目的とする。・・・
  4. 国境をまたぐ不法行為に対する責任は、利害関係者だけに関わる「私的なことがら」とする。
  5. すべての国家は法の下で平等と見なされるが、法規はパワーの非対称性を考慮に入れない。
  6. 国家間の争いはしばしば武力によって解決される。つまり実力の原則が支配する。武力行使を抑制する法的な縛りは事実上存在せず、国際法の諸準則は最小限の保護を与えるにとどまる。
  7. すべての国家に共通する全体としての最優先事項は、国家の自由に対する障害を最小化することである。
 1970年代にグローバリゼーションの傾向が強まり、国際社会は国民国家の主権を脅かすグローバルな網の目状の政治的相互依存状態へと急速に向かった。1990年、湾岸戦争の開戦にあたりアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュは「新世界秩序」の誕生を告げ、ウェストファリア・モデルの事実上の死を宣言した。  しかし、国家の伝統的機能の一部が遂行しづらくなっていることはたしかだとはいえ、国民国家が終焉が差し迫っているわけではない。グローバリゼーションは従来からの国内政策と外交政策との境界を曖昧にする一方で、超領域的な社会空間や社会制度の成長を促しており、伝統的な政治的取り決めの揺らぎにもすながっている。21世紀が始まった時点で、世界は近代国民国家システムからポスト近代的形態のグローバル・ガバナンスへの移行期にある。<マンフレッド・B・スティーガー/桜井公人他訳『グローバリゼーション』2005 岩波書店 p.73-81 または、『同新版』p.69-76">