綿花/コットン
綿織物の原料となる農作物。中国やインドで栽培されていたが、イギリス綿工業の原料とされ、アメリカ大陸南部で黒人奴隷によって生産されるようになった。
綿花は綿織物の原料。ワタは、夏に黄色の花をつけ、秋に結実をする。その種子の周りの間充織の繊維が綿である。綿花を栽培し綿織物(コットン)をつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。インド産綿布は16世紀以来ヨーロッパに輸出され、その積み出し港の地名であるカリカットからキャラコ(キャリコ)といわれるようになった。17世紀には綿布はイギリス東インド会社の主要な輸入品となり、イギリスでの需要が高まったので、イギリスは逆に綿織物生産に乗り出すようになり、綿工業がイギリスの産業革命の原動力となった。
日本でも平安時代に大陸から伝えられ、栽培されるようになったが、一時衰え、一五世紀ごろ中国から種綿がもたらされて広く作られるようになり、木綿は日本人の主要な衣類になった。特に西日本では農家で綿花が栽培された。明治時代までは日本の農村で綿花畑はよく見かけられたが、明治末期に綿工業が急速に成長、原料の綿花は輸入に依存するようになったため、ほとんど見られなくなってしまった。 → 中国の綿織物
南北戦争で黒人奴隷に依存できなくなった綿花プランテーションはどうなったか。崩壊したアメリカのコットン産業は、結局奴隷を必要としない機械化と農薬によって救済されることになる。コットンは天然繊維とはいってもどんな作物よりも大量に農薬が散布されている。今日のコットン耕作面積は世界の農地の3パーセント以下だが、使用している殺虫剤の量は全世界での消費量の4分の1を占めている。その害虫はワタミゾウムシといい、1890年代にメキシコからアメリカのコットン畑に入り込み、その対策に年間およそ3億ドルにのぼる殺虫剤が使われているという。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『同書』p.93>
日本でも平安時代に大陸から伝えられ、栽培されるようになったが、一時衰え、一五世紀ごろ中国から種綿がもたらされて広く作られるようになり、木綿は日本人の主要な衣類になった。特に西日本では農家で綿花が栽培された。明治時代までは日本の農村で綿花畑はよく見かけられたが、明治末期に綿工業が急速に成長、原料の綿花は輸入に依存するようになったため、ほとんど見られなくなってしまった。 → 中国の綿織物
イギリス産業革命
ハーグリーヴズのジェニー紡績機(1764年)、アークライトの水力紡績機(1769年)、さらにクロンプトンのミュール紡績機(1779年)と続いた綿紡績機械の改良によって、綿糸が大量に生産されるようになると、その原料の綿花の需要は一挙に増加した。こうしてイギリスの綿工業が成立すると、原料の綿花を逆にインドから輸入するようになり、さらに西インド諸島やアメリカ大陸でも綿花の栽培が急速に広がった。アメリカ南部の綿花プランテーション
イギリスの綿織物生産が爆発的に増加するなかで、18世紀末にアメリカのホイットニーが綿操り機を発明すると、アメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷による綿花の生産が増大し、三角貿易の一角を占めてイギリスへの輸出品となった。しかし、北部の工業が発達するにつれて、黒人奴隷制に対する批判が強まり、また北部の産業資本家が保護貿易を主張したのに対して、南部の綿花農場主は綿花輸出の必要から自由貿易を主張するという対立が生じ、1861年に南北戦争が勃発した。戦争のためにアメリカ産綿花の生産が減少、さらに北部の勝利によって黒人奴隷制が禁止されたため、南部の綿花プランテーションは衰退に向かった。世界の綿花生産の主力は、西アフリカや中国に移っていった。Episode キング・コットンとワタミゾウムシ
アメリカのヴァージニアジェームズタウンから始まった集約的なコットン栽培は、土壌に打撃をあたえるため、コットン農家はつねに新しい土地を求めた。それでも高い収益を上げるため、インディアンの土地は次々と没収され、綿花農園に転換していった。コットンがアメリカ最大の輸出産業となるにつれ、黒人奴隷も急増、1855年には推定で約320万人の黒人奴隷がコットン、タバコなどの農園で働いていた。コットン生産量は50年前にはわずか4700万キロだったものが、この年にはアメリカ南部で9億キロちかく出荷されていた。(引用)南部の経済を見てサウスカロライナ州知事ジェームズ・ヘンリー・ハモンドは「コットンはキングだ」と表現したが、コットンがキングだとするなら、その臣下はくたくたに疲れはてた奴隷であった。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50に植物』2012 原書房 p.92>このように、アメリカ南部ではキング・コットンと言われ、また南部は「コットン・キングダム」(綿花王国)、コットン・ベルト(綿花地帯)と言われたのだった。
南北戦争で黒人奴隷に依存できなくなった綿花プランテーションはどうなったか。崩壊したアメリカのコットン産業は、結局奴隷を必要としない機械化と農薬によって救済されることになる。コットンは天然繊維とはいってもどんな作物よりも大量に農薬が散布されている。今日のコットン耕作面積は世界の農地の3パーセント以下だが、使用している殺虫剤の量は全世界での消費量の4分の1を占めている。その害虫はワタミゾウムシといい、1890年代にメキシコからアメリカのコットン畑に入り込み、その対策に年間およそ3億ドルにのぼる殺虫剤が使われているという。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『同書』p.93>
インドの綿花栽培
19世紀中ごろ、インドはイギリス向け綿花の単一栽培地域となり、イギリスの植民地支配を受けた。
インドでは農家の家内工業としての綿織物の原料として綿花が栽培され、インド産綿布は18世紀前半まではイギリスに輸出されていた。ところがイギリス産業革命のインドへの影響によって、インドはイギリス製綿布の輸入地域に転換し、そのためインドの家内工業としての綿織物業は衰退し、農民は綿花栽培に特化していった。とくに1861年、アメリカ南北戦争による世界的綿花不足によってインドの綿花生産は異常に増大し、1863年にはアヘンを抜いてインドの最大の輸出品となった。同時にイギリスはインド大反乱を鎮圧し、1877年にはインド帝国として直接統治し、綿花は、藍、茶、アヘンなどのとともに主要な商品作物として栽培され続ける。