茶法
1773年に北米植民地に対して出されたイギリスの課税法。東インド会社による茶の独占販売を図ったことに植民地側が反発、同年末のボストン茶会事件を引き起こし、1775年のアメリカ独立戦争を誘発した。
Tea Act 茶条令ともいう。イギリス本国がアメリカ植民地に対して出したタウンゼント諸法以来、茶輸入に課税されていた植民地側が、対抗上オランダからの茶を密輸入するようになったため、以前から経営難に陥っていた東インド会社は打撃を受けた。 → 世界史の中の茶
ボストン茶会事件が起きる
そこでイギリス政府はは1773年4月に茶法を制定し、東インド会社を救済するため、会社手持ちの茶を、イギリス仲買人を経ずに植民地に直売し(密輸茶より安い価格で販売できるようにし)、植民地の茶市場の独占を認めた。植民地側は茶の密輸業者だけでなく、一般貿易商、消費者も、東インド会社による商品市場の独占につながるとして激しい反対運動を展開し、1773年12月にボストン茶会事件が引き起こされ、それをきっかけにアメリカ植民地人の独立の声が強まり、1775年4月のレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まる。Episoce 大ピットの痛風とアメリカ独立戦争
アメリカ独立戦争の勃発には、ウィリアム=ピットが痛風を病んでいたことが影響を与えた。ウィリアム=ピット(William Pitt 1708-1778)は当時の国王ジョージ3世に仕える有力政治家で、その子ピット(1759-1806)が小ピットと言われるのに対して大ピットと言われた。大ピットはトーリ党で首相も務めたが、アメリカ植民地に対し印紙税や関税増税を課すことには反対していた。1773年、イギリス議会で茶法が成立し、それが原因となってボストン茶会事件が起こり、イギリス政府がボストン港を封鎖したことから植民地側が反発し、ついにアメリカ独立戦争となった。(引用)その当時ピットはやはり痛風に苦しめられていて、活発な政治活動ができないでいた。幸いベンジャミン・フランクリンがアメリカの反対派の代表として彼と通じていて、フランクリンの方も痛風の患者だったが、ジェファソンとも連絡して、この人たちの間で合意できるような調停案にまでこぎつけていた。しかし、ジョージ3世はこの案を読むことさえしなかったという。またその頃にはピットの痛風の症状がきわめてひどくなり、行動も自由でなかったが、独立戦争が始まって二年後にやや回復して、改めて軍隊の撤退と調停についての提案をしたが、ジョージ3世は彼と話すために会おうともしなかったといわれている。ピットが痛風でなくてもっと活動できたなら、という仮説を考えてみたくなるような話である。<木原弘二『痛風――ヒポクラテスの時代から現代まで』1990 中公新書 p.164>