ボストン茶会事件
1773年、北米植民地人が、東インド会社に茶の専売権を与える茶法に反対して、ボストン港で東インド会社の茶を棄てたことから起こった反英闘争。アメリカ独立戦争のきっかけとなった。
ボストン茶会事件
1773年4月、イギリス本国議会が茶法(茶条令)を制定し、イギリス東インド会社に茶の専売権を与えたことにたいして、アメリカ植民地側は強く反発した。
植民地側では茶法の制定に反対し、そのうちのボストンの急進グループは、同1773年12月、インディアンのモホーク族に変装し、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は「ボストンで茶会(ティーパーティー)を開いただけだ」と冗談を言ってごまかし、真犯人は検挙できなかった。
ところが、1773年に本国政府が定めた茶法は、植民地人を再び怒らせることになった。茶法は東インド会社がイギリスで貯えていた茶の一部を13植民地で直売することを許した法律であり、もともとはオランダとの競争で経営不振に陥っていた東インド会社を救済するためのものであった。しかも中間商人の中間マージンを取らないから安く提供できることになり、植民地側の消費者にとっては有利なはずだった。しかし、植民地人にとって茶法は、植民地での茶の販売が東インド会社によって独占され、植民地人が自由に茶を販売することができなくなることを意味しているととらえた。そのうえ、東インド会社から買った茶に課せられる茶税で、イギリスは植民地支配のために必要な経費をまかなっている、という構図に植民地人が気づいたのだ。このような理由から、まずボストンの植民地人のなかに、茶法反対の声が盛り上がったのだった。
植民地側では茶法の制定に反対し、そのうちのボストンの急進グループは、同1773年12月、インディアンのモホーク族に変装し、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は「ボストンで茶会(ティーパーティー)を開いただけだ」と冗談を言ってごまかし、真犯人は検挙できなかった。
植民地はなぜ怒ったか
本国のイギリスは植民地で必要な費用は植民地側に負担させようという考えで、1767年にタウンゼント諸法という課税法をアメリカ植民地に押しつけた。ところが植民地人のイギリス製品不買運動など想像以上の反発を受けたので、3年後にはそのほとんどの内容を廃止した。しかし、茶税だけは唯一の財源として残していた。それは、植民地への課税を無くすと植民地側で余力が生まれ、製造工業が発達して本国を脅かす恐れがあること、また茶はアメリカでは栽培できないから輸入せざるを得なかったからだった。そこで、茶税のみの負担については植民地側も受け入れた。ところが、1773年に本国政府が定めた茶法は、植民地人を再び怒らせることになった。茶法は東インド会社がイギリスで貯えていた茶の一部を13植民地で直売することを許した法律であり、もともとはオランダとの競争で経営不振に陥っていた東インド会社を救済するためのものであった。しかも中間商人の中間マージンを取らないから安く提供できることになり、植民地側の消費者にとっては有利なはずだった。しかし、植民地人にとって茶法は、植民地での茶の販売が東インド会社によって独占され、植民地人が自由に茶を販売することができなくなることを意味しているととらえた。そのうえ、東インド会社から買った茶に課せられる茶税で、イギリスは植民地支配のために必要な経費をまかなっている、という構図に植民地人が気づいたのだ。このような理由から、まずボストンの植民地人のなかに、茶法反対の声が盛り上がったのだった。
アメリカ独立戦争に点火
1773年12月のボストン茶会事件では「くたばれ、茶!」という歌が生まれ、それはたちまち13植民地にひろがった。そして、茶を飲まずにコーヒーを飲むことが一斉に流行った。 茶会事件に対する報復としてイギリス本国はボストン港を封鎖し、さらに強圧的諸条令を制定して植民地側を屈服させようとした。反発した植民地側は再びイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、1774年9月にフィラデルフィアで大陸会議を開催して13植民地の代表が集まり、本国との対立は決定的となって、1775年のアメリカ独立戦争が始まる。このようにボストン茶会事件は、アメリカ独立戦争勃発の引き金となった事件であった。Episode アメリカ人がコーヒーを飲む理由
ボストンで本国の植民地政策に対する反対の中心になっていたのはサミュエル=アダムス、及びサンズ-オブ-リヴァティーの面々であった。彼らは、茶の不輸入運動を展開、密輸業者も同調した。さらに、ボストンの婦人達は茶を飲まない誓いを立て、かわりにコーヒーを飲むようにした。「アメリカ人は茶条令を機会に、茶碗から、コーヒー茶碗へと転向した」。<今津晃『アメリカ独立革命』p.115>ボストン港封鎖
ボストン茶会事件の報復としてイギリスは、1774年3月、茶会事件の損害1万5千ポンドを弁償するまで、ボストン港を閉鎖するという法案を通過させ、6月1日に実施した。ボストン通信委員会のサミュエル=アダムスは5日「厳粛な連盟と規約」を作成、イギリスとの一切の取引の停止とイギリス製品のボイコットを決議。植民地と本国は「経済戦」に突入した。ボストンの経済は破綻状態になったが市の失業対策委員会は公共事業を拡大し対応した。また、他の植民地諸州もマサチューセッツ支援に立ち上がり、大陸連合会議開催の気運が高まった。イギリスはさらに「強圧的諸条令」を制定した。強圧的諸条令
1774年5月にイギリスが定めた条令で、「耐えがたき条令」 Coercive Acts とも言う。ボストン茶会事件にたいする報復としてボストン港封鎖の措置に続いて定められたつぎのような内容の条令である。- マサチューセッツ統治条令:参議会議院を勅任とし、町会は総督の許可無く開催できない。(王政支配を強化し、タウン-ミー ティングの実権を奪おうとしたもの。)
- 裁判条令:総督は裁判を本国で行う事が出来る。
- 軍隊宿営条令:軍政を布くための施設の徴用を可能にする。
- ケベック条令:ミシシッピまでの地域をインディアン保留地とし、自由な開拓を認めず、その地域でのカトリック信仰を許可。