ヴァルミーの戦い
1792年9月20日、フランス革命軍がオーストリア・プロイセン同盟軍を破った戦い。同時期に男子普通選挙で選出された国民公会が成立し、フランス革命は大きく前進した。
ヴァルミー GoogleMap
プロイセンの革命干渉
密かにマリ=アントワネットの要請を受けたプロイセンは、指揮官のブラウンシュヴァイク公が7月25日に声明を出し、ルイ16世に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する、と脅した(ブラウンシュヴァイク宣言※)。憤激したパリでは、国王に対する非難が強まり、プロイセン軍が国境を越えてパリに迫る中、パリ市民が蜂起して8月10日事件が起き、立法議会は王権を停止した上で解散し、代わって男子普通選挙による国民公会が開設されることになった。またこの日、フランス軍の司令官ラ=ファイエットはオーストリアに亡命をはかったが、捕らえられて捕虜となった。9月にはプロイセン軍がヴェルダンを陥落させ、パリに危機が迫ったため、パニックが起こり9月虐殺という革命派の市民による反革命派に対する虐殺事件(獄中の反革命派千人以上が裁判なしに処刑された)が起きた。※ブラウンシュヴァイク宣言 プロイセン軍の指揮官ブラウンシュヴァイク公の名前で7月25日に出されたもので、「もし国王、王妃両殿下および王族にたいしてわずかな暴力行為や侮辱でも加えられたならば、もし彼らの安全、地位保全および自由が直ちに与えられなかったならば、それらにたいしていつまでも記憶に残る見せしめの報復を行ない、パリを軍事的に強制執行し、全面的に破壊」することを宣言した。27日には追加宣言で国王がパリから連れ出されるのに協力したものも同様に懲罰するということが言明された。つまりフランス国王に危害が加えられればパリを破壊するという脅迫的な内容であったが、それはルイ16世の意向を受けた原文をもとに亡命貴族の一人が書いたものであった。<河野健二編『資料フランス革命』1989 岩波書店p.193-198/J.コデショ『フランス革命年代記』1989 日本評論社 p.85-56>
フランス革命軍の勝利
1792年9月20日、フランス東北部の小村ヴァルミーでプロイセン軍3万4千、さらにオーストリア軍3万とフランスの亡命貴族の率いる5千~1万の軍と、フランス革命軍が対陣した。フランス軍はジロンド派のデュムーリェとケレルマンの指揮する5万。そのほとんどはサンキュロットなどの寄せ集めて装備も訓練も不十分であったが、戦意だけは高かった。指揮官ケレルマンは帽子を剣の先にかざし、「国民万歳」と叫び、高らかにラ=マルセイエーズを歌った。砲兵隊が必死にプロイセン軍の進撃を食い止めるうちに、土砂降りの雨となり、ブラウンシュヴァイク公は退却命令を出した。プロイセン軍の敗因は、フランス砲兵隊の活躍、悪天候、赤痢の流行という健康状態の悪化、食糧と水の不足、フランス農民のゲリラ的抵抗などが挙げられている。いずれにせよ、パリ陥落は間違いないと見ていたヨーロッパの人たちを驚かすこととなった。思いがけないプロイセン軍の敗北に、ブラウンシュヴァイク将軍が買収されたのではないか、などの噂が立った。<芝生瑞和『図説フランス革命』1989 河出書房新社 p.106>ヴァルミーの勝利の意義
ドイツの文豪として知られるゲーテは「この日ここから、世界史の新しい時代が始まる」 と日記に記したとされている。この日は、国民公会に選出された議員が第1回会合を開いた日でもあり、フランス革命を外国の干渉から守り、共和政を実現させる記念すべき勝利となった。ヴァルミーの戦いは戦局を一変させた。ヴァルミーの勝利をうけて、1792年11月18日には、ベルギー領のジェマップの戦いではデュムーリェの指揮する4万のフランス軍はオーストリア軍を打ち破り、ベルギーから撤退させた。「ラ=マルセイエーズ」を高唱しながら、津波のように進撃するサンキュロットの「人民戦争」は、これまでの戦争観をくつがえすにたるものであった。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.138>
イギリスのピットはフランスがさらにオランダに進出することを警戒し、ルイ16世処刑を口実に、対仏大同盟(第1回)の結成を呼びかけ、フランス向けの輸出を停止した。1793年2月、国民公会はイギリス・オランダ、3月にスペインに対して宣戦布告、ほぼ全ヨーロッパと戦うこととなった。なお、ヴァルミーの戦いに敗れたプロイセンは、ロシアのエカチェリーナ2世に対し、対仏戦争を継続する代償として、第2回ポーランド分割を要求し、1793年にそれを実現した。
Episode 疑わしいゲーテの言葉
ゲーテがヴァルミーの戦いでのフランス国民軍の勝利を感動を以て賞賛した、という通説は疑問が提出されている。(引用)ゲーテはザクセン=ワイマール公カール=アウグストに随行して、反革命連合軍の陣中にあった。まず、ゲーテはフランス革命に一貫して懐疑的であったし、なによりも反革命軍の一員として参戦している。彼自身の『滞仏陣中記』(1820~22)をみても彼がこの戦いに感動したという形跡はどこにも見あたらない。……かれは醒めた保守主義者であり、およそ「革命精神に感動」する素朴さとはほど遠い人物なのである。<谷川稔『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』1999 中央公論社 p.29>