オランプ=ド=グージュ/女性の権利宣言
フランス革命で活躍した女性。1791年、『女性の権利宣言』を発表したが、ジャコバン政権によって処刑された。長く存在は忘れられていたが、20世紀後半になって女性解放思想の掘り起こしの結果、女性の権利について最初に明確な主張をした人物として評価され、広く知られるようになった。
フランス革命の最初の成果として1789年8月に国民議会は人権宣言を採択した。その第一条には「人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける」と規定されていたが、その人間とは無意識の前提として男性のことであり、職業などの社会的な権利、財産などの経済的な権利、そして選挙の投票という参政権としての政治的な権利、などにおいて女性は自由ではなく、封建時代(アンシャン=レジーム)と同じような不平等な状態に置かれていた。そのなかではじめて女性の社会的、政治的な権利を主張し、18世紀に盛んになり、そして現代においても続いている女性解放運動の始まりに位置付けることができるのがオランプ=ドゥ=グージュの活動であった。
革命の激動の中で
オランプ=ドゥ=グージュ Olympe de Gouge 1748-1793 は本名をマリー=グーズといい、フランス南部のトゥールーズに近い町で、肉屋を営むピエール=グーズと母アンヌ=オランプの娘として生まれた。しかし母は貴族ポンピニャン侯爵(文筆家としても名高かった)に仕えており、侯爵が真の父親だったという。マリーは17歳で結婚したが1年後に死別し、おそらく愛人の手引きで幼児を連れてパリに出て苦労の末、有力なパトロンを得て社交界で活躍するようになり、当時盛んだったコメディ・フランセーズで演劇に触れ、1783年頃から劇作家として認められるようになった。彼女は自ら侯爵の私生児であることを隠さず、貴族風にオランプ=ドゥ=グージュと名乗って劇作家として知られるようになり、40歳頃にフランス革命に遭遇、革命運動の自由や平等の思想に刺激されて、多くの論評を発表するようになった。<オリヴィエ・ブラン/辻村みよ子訳『女の人権宣言―フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』1995 岩波書店 以下は主として同書に依り構成>黒人奴隷制度に反対
オランプ=ドゥ=グージュは1788年、ブリッソが始めた「黒人友の会」による黒人奴隷制度反対の運動を支持していた。フランスではナントやボルドーの港で盛んに黒人奴隷貿易が行われており、フランス領の西インド諸島のハイチでは苛酷な奴隷労働によってフランス人による砂糖プランテーション産業が繁栄し、フランスに富をもたらしていたが、イギリスのウィルバーフォースの運動の影響もあって、フランスでも奴隷制反対の声が起こっていた。オランプは黒人奴隷を扱った演劇の脚本をコメディーフランセーズのために書いたが、奴隷商人たちの圧力によって上演が妨害されるという事件がおこった。オランプは強く反発し、黒人奴隷制度反対の声をさらに強く主張してその存在を知られるようになった。社会の中で差別される人々の存在に目を向けることで、彼女は無能な国王を戴くフランス国家を改革しなければならないという強い信念を持ち、当時の言葉で言えば「愛国派」としての言論人として注目されるようになった。<オリヴィエ・ブラン『同上書』p.72-94>「女性の権利宣言」を発表
彼女は1791年9月、『女性の人権宣言』と題したパンフレットを発表、人権宣言の条文に沿って書き換える形で、女性にも平等な権利があることを訴えた。この女性解放をめざす提言は広く関心を呼び、ジロンド派のコンドルセなどの穏健共和派には支持者も多かった。しかしその女性解放の主張は、封建的、家父長制的な家族思想で固まっている貴族階級だけでなく、新興の産業資本家であるブルジョワの持っている「男は外で仕事をし、女は内で家庭を守る」という家庭観とも相容れなかったので、革命を進めようとしていたジャコバン派のロベスピエールなどからも危険な思想であると見られ、取り上げられることなかった。同じ1791年9月に制定されたフランス最初の憲法である1791年憲法では男性のみの制限選挙が定められ、それに従って行われた選挙によって10月に立法議会が成立したが、女性参政権は認められていかったのでオランプ=ド=グージュは議会傍聴に押しかけてパンフレットや議員への働きかけることでしか主張を訴えざるを得なかった。反革命として処刑される
オランプ=ド=グージュの主張は、ジャコバン派(山岳派とも言う)が主張する急進的共和政(中央集権的共和制)に反対して、ジロンド派の穏健共和政(地方分権的共和制)の路線に近く、国王処刑にも反対した。具体的には1793年夏、単一不可分の共和制か、連邦制か、君主政かの三択での国民投票を提案した。しかし1793年3月にジロンド派を追放して独裁権力をにぎっていたロベスピエールのジャコバン派政権は、オランプ=ド=グージュを王政の復活を煽動した反革命の容疑で7月20日に逮捕、「人民主権を阻害する著作」を理由に11月2日に革命裁判所にかけられて死刑判決が出され、翌3日にギロチンで処刑された。女性の権利宣言
フランス革命の過程で1791年、オランプ=ド=グージュが『権利宣言』を女性も含めたものに書き換えて発表した。女性参政権などを含む女性の権利を主張したが、国民議会・立法議会で取り上げられることは無かった。現在は女性の権利を最初に表明したという歴史的意義が認められている。
『女性の権利宣言』の内容
1791年9月にオランプ=ド=グージュが発表した『女性の権利宣言』(正確には「女性および女性市民の権利宣言」)は、『人権宣言』が権利の主体を人(homme)としているのに対して女性(femme)とし、市民(citoyen)としているところを女性市民(citoyenne)と書き改め、同じように前文と17条から成っており対応している。多くの条文がそのような書き換えであるが、その中で重要な条文、独自の内容を含む部分などを書き出すと次のようになる。前文 母親・娘・姉妹たち、国民の女性代表者たちは、国民議会の構成員となることを要求する。そして、女性の諸権利に対する無知、忘却または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮して、女性の譲り渡すことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。(下略)全条文は上掲の<オリヴィエ・ブラン/辻村みよ子訳『女の人権宣言―フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』1995 岩波書店 p.269-274>に、対応する『人権宣言』とともに掲載されている。書き抜かなかった部分は人権宣言の「人」を「女性」に置き換えた条文であり、重要でないという意味でない。
第1条 女性は、自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして存在する。社会的差別は、共同の利益に基づくのでなければ、設けることができない。
第6条 法律は、一般意志の表明でなければならない。すべての女性市民と男性市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参加する権利をもつ。法律はすべての者に対して同一でなければならない。(下略)
第10条 (前略)女性は、処刑台にのぼる権利をもつ。同時に、女性は、その意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限りにおいて、演壇にのぼる権利をもたなければならない。
第11条 思想および意見の自由な伝達は、女性の最も貴重な権利の一つである。それは、この自由が、子どもと父親の嫡出関係を確保するからである。(下略)
第13条 公の武力の維持および行政の支出のための、女性と男性の租税の負担は平等である。女性は、すべての賦役とすべての激務に貢献する。したがって、女性は(男性と)同等に、地位・雇用・負担・位階・職業に参加しなければならない。
第17条 財産は、結婚していると否とにかかわらず、両性に属する。財産(権)は、そのいずれにとっても、不可侵かつ神聖な権利である。(下略)
女性の権利のその後
国民議会・立法議会では女性の権利の問題はほとんど取り上げられることはなく、無視された。初めての男性普通選挙によって選出された国民公会が1792年9月に発足し、激しい権力闘争の結果、1793年6月、国民公会からジロンド派が追放され、ジャコバン派政権が成立すると、独裁的な権力をにぎったロベスピエールは、オランプ=ドゥ=グージュを反革命の陰謀を行ったとして逮捕し、処刑した。同年10月には国民公会は女性の結社禁止令を制定し、女性の政治的権利はおさえつけられてしまった。その他、ジロンド派で女性の権利に理解を示したコンドルセも1794年に処刑された。フランス革命期にはそれでも民事上の権利での男女の平等や、一定の条件のもとでの協議離婚が認められるなどの女性の権利の向上が見られたが、ナポレオンの登場によって革命が終わりを告げるとこれらの女性の権利は再び認められなくなり、1804年に制定されたナポレオン法典では、妻は夫の後見に服するものと規定され、財産や離婚などでの明らかな不平等が法制化された。<水田珠枝『女性解放思想の歩み』1973 岩波新書 p.86-88 などによる> → 女性解放運動・女性参政権・女性差別撤廃条約