国民議会/憲法制定議会
1789年6月に第三身分代表が三部会から分離させ、成立させた議会。バスティーユ牢獄の襲撃からの民衆蜂起を受けとめ、封建的特権の廃止、人権宣言などフランス革命の重要な決議を行い、憲法制定を進める。91年9月、憲法を制定し解散。10月立法議会が召集される。
国民議会 Assemblée Nationale は、フランス革命の初期に、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で開催された三部会が、議決法で紛糾する中、1789年6月17日に第三身分代表のみで「国民議会」を設立することを宣言した。7月14日にバスティーユ牢獄襲撃から民衆蜂起が全国に広がると、この国民議会は革命の中心機関となり、封建的特権の廃止や人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散するまで存続した。 → フランス
国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、1789年9月ごろの主力党派はミラボー、ラ=ファイエットら立憲君主主義者であった。その他に次のような党派によって構成されていた。
当初はパリから離れたヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。
国民議会決議から球戯場の誓いへ
第三身分の代表が、自らが国民の正統な代表であると自覚したのには、シェイエスが発表した『第三身分とは何か』の影響が強かった。1789年6月17日、議員としてシェイエスが提案し、第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale と名のることを宣言した。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌1789年6月20日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局、国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。憲法制定国民議会となる
フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と称し憲法の制定に着手することを決議した。それに対してルイ16世は、側近に動かされて部隊をヴェルサイユに集結させようとした。国民議会が抗議すると、ルイ16世は7月11日、改革を進めていた財務長官ネッケルを罷免、保守勢力で態勢を立て直そうとした。この報がパリ市民に伝えられると1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃を行い、フランス革命が開始された。これ以降、国民議会は革命の熱気を受け止めて、その成果を国法上の決議とする役割を担うこととなる。国民議会の大まかな党派
国民議会(憲法制定国民議会)は1789年7月から1791年に1791年憲法を制定して解散、10月からの立法議会に交代するまでの革命第一段階の主要機関となった。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、1789年9月ごろの主力党派はミラボー、ラ=ファイエットら立憲君主主義者であった。その他に次のような党派によって構成されていた。
- 王政派:マルーエ、ラリ=トランダルら
- 立憲派:ミラボー、ラ=ファイエット、シェイエス、ル=シャプリエ、バレールら
- 三頭派:バルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟ら(憲法制定を主導。後に立憲君主政を掲げるフイヤン派となる)
- 共和派:ロベスピエール、ペチヨン、ビュゾら(立憲君主政に反対、共和政を主張)
Episode 右翼・左翼の起源
国民議会及び憲法制定国民議会では、議員たちが政治的主張の類似性から、上記のようなグループ(党派)が形成された。特に1789年9月の国王の拒否権を認めるかどうかの論争以来、議場での“棲み分け”が始まり、議長の左側には、《愛国者》といわれた三頭派や共和派が席を占め、右側には《黒派》といわれた国王特権やアンシャンレジームと結びついた特権を認める人々が座った。中間的な立憲派は、左右両陣営の中間に席を占めていたが、彼らにはまとまりがなかった。このフランス憲法制定国民議会における党派の座席はほぼ固定され、そこから、左翼=革新派・革命派、右翼=保守派・王党派という政治用語が生まれ、現在まで続いている。議会の成果
7月14日のバスティーユ牢獄襲撃、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択した。当初はパリから離れたヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。
憲法制定を終え、解散
1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。