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第二共和政

1848年の二月革命で七月王政が倒されて成立した臨時政府から、1852年にナポレオン3姓が即位して第二帝政となるまでの時期を第二共和政という。革命に参加した社会主義者とブルジョワ共和派の対立が深まり、労働者の六月蜂起がおこるなど、安定せず、11月の大統領選挙で当選したルイ=ナポレオンが次第に権力を集中させて、1851年にクーデタを起こし、翌52年、国民投票で皇帝となることを承認されて第二帝政に移行した。

二月革命での内部矛盾

 臨時政府のなかの急進共和派、社会主義派は、労働者の救済を図るために国立作業場を設置した。これは工場ではなく、土木作業場といったもので、失業対策のために設けられたものであった。しかし、作業場に収容された人には、実際の仕事がなくとも国費で給与が支払われていたため、厖大な支出が続き、次第に財政を圧迫していった。あわせて当時、全ヨーロッパでのジャガイモ飢饉の影響による不況で、国家財政は危機に瀕することとなった。臨時政府部内では、国立作業場の閉鎖の主張が大勢を占め、4月の選挙によって社会主義派が後退したことによって、5月に成立した執行委員会(政府)でその閉鎖が決定された。
六月蜂起 政府が国立作業場を閉鎖したことに対して労働者と社会主義派は強く反発した。1848年6月、労働者は六月蜂起を起こしパリ中にバリケードを築いた。議会は軍人のカヴェニャックに全権を付与、彼は戒厳令を布き、労働者のバリケードを砲撃して鎮圧、労働者・社会主義者を多数殺害した。ルイ=ブランはイギリスに亡命し、実権は鎮圧を指揮した軍人カヴェニャックに移った。フランス革命を上まわる規模の市街戦となった六月蜂起は、世界史上、最初の労働者の武装蜂起とも言われるているが、同時に初めてブルジョワ側の軍隊によって鎮圧された戦いとなった。
議会の右傾化 六月蜂起は鎮圧されたが、労働者が武装蜂起したのは最初のことだったので、社会の保守層、上層部に大きな危機感を抱かせた。第二共和政のもとでバラバラだった右派、王党派は、反共和政・反労働者階級で一致する必要を自覚し、ブルボン王朝を正統としてその復活を主張する正統王朝派(レジティミスト)・七月王政のオルレアン家の復活を策するオルレアン派(オルレアニスト)の両派が合同、さらにカトリック勢力も加わって「秩序党」という党派を結成し、選挙を通じて議会の右派として大きな勢力をもつようになっていった。

共和国憲法と大統領選挙

ルイ=ナポレオンの大統領当選 憲法制定国民議会は11月4日に第二共和政憲法を採択した。人民主権・三権分立・一院制・大統領制を採用し、男性普通選挙を定めていた。この憲法に基づき、同1848年年12月に最初の大統領選挙が実施されると、カヴェニャック、ラマルティーヌらと並んで、亡命先のイギリスから帰国したナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが立候補した。多くはカヴェニャックの圧勝を予想していたが、その結果はルイ=ナポレオンが553万票(74.2%)で圧勝、カヴェニャックは145万票、ルドリュ=ロランは37万票、ラマルティーヌは3万票にも届かなかった。
 ルイ=ナポレオンは、若い頃イタリアでカルボナリに参加したり、またサン=シモンの影響を受けて社会改良論を発表したり、開明的な人物と見られていた。革命や労働者蜂起で動揺が続いたフランス社会に、民衆の立場に立った強力な指導者として期待され、何よりもナポレオンの甥であることが、1840年にナポレオンの遺体がセントヘレナからパリに移されて正式に埋葬され、国民的英雄が帰還したとして歓迎されたことなどのタイミングもあり、急速に支持を集めた結果であった。
共和主義者なき共和政 大統領となったルイ=ナポレオンは、当初は共和政に忠実な姿勢を示したが、実際には共和派を排除し、右派のメンバーからなる内閣を発足させた。その実態は「共和主義者なき共和政」といわれるものだった。1849年5月に立法議会選挙が行われると、右派の秩序党が450議席(750議席中)の53%で過半数を占め、穏健共和派は12%と惨敗、左派(この時は急進共和派と社会主義者が合同し山岳党―モンタニャールと称した)は35%と健闘し、議会は中道派が壊滅、左右分極化が進む結果となった。(数字は『フランス史』山側出版社世界各国史12 p.322による)
イタリア派兵問題 ルイ=ナポレオンは国民の直接選挙で大統領に選ばれたが、初めは議会内に与党はなかった。その選挙でカトリック勢力の支持を受けていたが、まずその姿勢が試される機会が外交問題でもちあがった。イタリアでは1848年革命の一環として、オーストリアからの北イタリア解放の戦いが始まったが、それが鎮圧された後、1849年にローマでも革命が起こり、ローマ共和国が成立し、ローマ教皇ピウス9世が亡命するという事態となった。国内でカトリックの支持を受けていたルイ=ナポレオンはピウス9世のローマ復帰を助けるためフランス軍をローマに派遣した。フランス軍はマッツィーニガリバルディの抵抗を排除してローマ共和国を倒すことに成功した。これ以後もルイ=ナポレオンはイタリア問題に深くかかわりこととなる。この時のフランス軍の派遣に対して、議会の左派山岳党は憲法違反だとして反対し、パリでデモ行進から蜂起に図ったが、民衆の支持がなく鎮圧されてしまい、指導したルドリュ=ロランはイギリスに亡命、山岳党は壊滅した。こうして議会は右派の秩序党が単独で動かせるようになった。
議会と大統領の対立 議会で多数派である秩序党は、大統領ルイ=ナポレオンを無視する形で、次々と反動的な立法を行った。それは集会の禁止、出版印刷税の復活などの言論統制、ストライキの禁止、ファルー法(それまで世俗化が進められてきた初等学校教育をカトリック教会が行うことを可能にする法律)、そして選挙法の改悪(選挙資格の定住条件を6ヶ月から3年に増やすなど)を強行した。このような議会に対して距離を置いた大統領は、民衆が議会から離れ、彼自身にその支持があつまるのを待ったが、憲法の規定では1852年3月には退任し、再選されないことになっていた。権力を維持するには憲法を改正し、議会から実権を奪って、叔父のナポレオンのように皇帝になるしかないと決意し、密かにクーデターの計画を練り上げていった。議会の秩序党は大統領ルイ=ナポレオンをただの飾りで、無能な人間と考えていたので無警戒だった。
ルイ=ナポレオンのクーデタ 1851年12月2日、軍隊を掌握したルイ=ナポレオンは議会を解散させ、パリに戒厳令を布き、秩序党のティエールなど中心人物を逮捕した。パリ市民の抵抗はなく、1851年のクーデタは成功した。年末の12月21日に国民投票を実施、投票率83%、賛成92%という圧倒的支持でクーデタは承認され、翌1852年12月2日にはナポレオン3世として即位して第二共和政は終わり、第二帝政へと移行する。