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未回収のイタリア

イタリア王国成立後もオーストリア領として残された地域。イタリア人の居住者が多かったことから、世論は強くその併合を求め、国際的な紛争の要因となった。1919年のサン=ジェルマン条約でほぼイタリア領となったが、第二次世界大戦後にユーゴスラヴィアとの間で新たな問題に発展した。

 イタリア王国が1870年にローマを占領し、ほぼ半島全域を統一し、1871年ローマを首都として国民国家を建設した後も、イタリア人居住地でありながらオーストリア=ハンガリー帝国領として残された地域をいう。特に、アドリア海に面したトリエステと北方へのルート上にある南チロルの併合を要求するイタリア国内の声が強くなり、その奪回をめざすナショナリズムが台頭する。

三国同盟の結成

 この「未回収のイタリア」(Italia irredenta)の解放を目指す運動をイルレデンティズモという。統一達成後のイタリアはフランスのチュニス侵出に反発して、1882年にドイツ、オーストリアと三国同盟を締結したのでオーストリアとは「未回収のイタリア」の問題を一時棚上げにした。

「未回収のイタリア」の解消

 しかし、第一次世界大戦が勃発すると、イタリアは「未回収のイタリア」奪回の機会と捉え、密かにイギリスなどの連合国側とロンドン秘密条約を結んで、戦争後の「未回収のイタリア」などの領土をオーストリア=ハンガリーから割譲させるという約束を得て、三国同盟を離脱して協商側に参戦した。その結果、イタリアは戦勝国となり、パリ講和会議に出席し、オーストリアとのサン=ジェルマン条約を締結して南チロルとトリエステのイタリア編入が決まり、「未回収のイタリア」問題は解消した。しかし、国内には戦勝国としてのそれ以外にも新たな割譲地を得る権利があるという声が強く、一部強硬派はトリエステに隣接するフィウメなどの領有を主張して紛争の余地が残ることとなる。

トリエステ問題

 第二次世界大戦中にドイツに占領されたトリエステを解放したのが、ティトーユーゴスラヴィア軍であったことからトリエステ問題が起こった。1946~47年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約が締結され、トリエステとその周辺は国際連合の監視下の自由地域とされ、それを北のA,南のB両地区に分割し、トリエステ市を含むA地区は英米が管理し、B地区はユーゴスラヴィア連邦が管理するとされ、イタリアの主権は及ばないこととなった。1954年に協定が成立、ほぼA地区はイタリアに返還され、B地区はユーゴ領とすることで収まった。これによってトリエステ市域はイタリア領となり、その南の沿岸部がユーゴスラヴィア連邦領となった。さらに1991~92年のユーゴスラヴィア連邦分解によって旧B地区はスロヴェニア領となったが、同じく独立を宣言したクロアティアとの間でピラン湾をめぐる国境問題が残っている。

南チロル問題

 第二次世界大戦後、オーストリアとの間での南チロルをめぐる問題も残った。南チロルの北半分のボルツァーノ地方は現実にはドイツ系住民が多数を占めており、イタリアへの編入に反発する声も強かった。特にムッソリーニのファシスト政権はドイツ語使用を禁止するなどの抑圧を行ったため、第二次大戦後に反イタリアの動きが強まった。オーストリアもサン=ジェルマン条約の見直しを要求、たびたび国際連合に提訴した。イタリア側は、ドイツ人地域とイタリア人地域をあわせて南チロル全体に自治権を認め、特別州の一つ(トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州)とすることで妥協を図り、1970年代に沈静化を図った。しかし、1990年代に入り、オーストリアにも民族主義的な極右政党が台頭し、南チロルの奪還を主張する声も出始めてた。
 1995年にはオーストリアがEUに加盟したため、イタリアとの国境は事実上消滅し、南チロル分離自治運動も収まった。しかし2000年代になると、シリアなどの中東からの難民がイタリアを経由してオーストリアに逃れるようになったため、オーストリアの極右勢力が反発し、新たな火種となっている。 → 南チロル問題
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