チュニス
イタリアのシチリア島の対岸の北アフリカに位置し、古代にはカルタゴが栄え、ローマ時代は属州アフリアの中心となり、ゲルマン人のヴァンダル王国が建設された。東ローマ帝国の支配の後、イスラーム化し、マグリブ地方で交替した幾つかの王朝の都となった。16世紀からはオスマン朝が進出、19世紀以降はフランスとイタリアがこの地をめぐって抗争し、フランスの植民地となった。1956年にチュニジアが独立してその首都となる。
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ベルベル人のイスラーム化
その後はベルベル人の地域となっていたが、677年にウマイヤ朝のイスラーム帝国が、軍営都市(ミスル)カイラワーンをこの地に建設し、8世紀初めまでにビザンツ帝国を駆逐し、さらにベルベル人地域への侵出の基地となった。以後、北アフリカのアラブ化が進み、現在のチュニジアはアラブ諸国の一つとなっている。 → イスラームの西方征服アグラブ朝からファーティマ朝へ
アッバース朝の時代の800年に、太守であったアグラブがこの地で自立し、カイラワーンを首都としてアグラブ朝を建設した。アグラブ朝はチュニジアを拠点にイタリア半島、シシリー島、コルシカ島、フランス南部に侵出し、地中海の一大勢力となった。しかし、909年にシーア派のイスマーイール派が建国したファーティマ朝によって滅ぼされた。ファーティマ朝は969年にエジプトにカイロを建設し、本拠地を移した。ハフス朝の時代
12世紀中ごろにはモロッコに起こったムワッヒド朝の支配がチュニジアにも及びマグリブ地方全域を支配した。チュニスにはハフス家が総督として駐屯したが、13世紀にムワッヒド朝の衰退に乗じて自立し、ハフス朝を開いた。1270年には第7回十字軍がチュニスに来襲したがハフス朝によって撃退され、フランス王ルイ9世はチュニスで陣没した。ハフス朝の時代の14世紀に活躍したイスラーム教徒の歴史家イブン=ハルドゥーンはチュニスの生まれである。オスマン帝国の進出
1534年にはバルバロッサ兄弟と言われて恐れられたトルコ人海賊の弟ハイル=アッディーン(バルバロス=ハイレッディン)によってチュニスが攻撃された。ハフス朝スルタンはスペインに援軍を要請、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は翌年、海軍を派遣してチュニスを攻撃し海賊を撃退した。しかし1517年にエジプトのマムルーク朝を滅ぼしてその勢力を北アフリカに及ぼしてきたオスマン帝国は、スレイマン1世がバルバロッサを配下にして1538年のプレヴェザの海戦でカール5世とヴェネツィアなどの連合海軍を破り、地中海の制海権を握った。その後、1574年にチュニスのハフス朝はオスマン帝国に征服され、19世紀までその支配を受けることとなる。近代のチュニス
19世紀末、帝国主義時代になるとフランスとイタリアがチュニジアをめぐって争った。露土戦争後のベルリン会議は主にバルカンにおけるロシアの勢力拡大を抑えるための会議であったが、オスマン帝国支配下のチュニスについても話し合われ、フランスがイギリスのエジプト支配を認める代わりに、チュニスに進出する権利を認められた。1881年、フランス軍がチュニスに上陸、チュニジア保護国化化を強行すると、チュニスの対岸のイタリアが反発しドイツ・オーストリアと接近して三国同盟を結成した。現代のチュニス
第二次世界大戦中はドイツが占領、1943年からの連合軍との北アフリカ戦線の激戦地となった。1956年、フランスから独立したチュニジアの首都となる。独立後のチュニジアでは独裁政治が長く続き、経済も停滞する中、2010年春にチュニスでの民衆蜂起から始まり、ベンアリ独裁政権が倒されるというジャスミン革命が起こり、「アラブの春」と言われる西アジア各国の民主化運動の先駆けとなった。
Episode 多民族、多文化のチュニス
現在のチュニスを訪ねると、その多民族、多文化の混在した独特の歴史遺産を見ることが出来る。カルタゴの古跡からほんの15キロのチュニスの旧市街にはチュニジア独立の英雄、ブルギバ初代大統領の名前をとった通りがあり、その一角にはイブン=ハルドゥーンの銅像が建っている。チュニジアの誇りだ。周囲はほぼ4キロの城壁に囲まれ、市内にはイブン=ハルドゥーン時代のモスクが残っている。スーク(市場)には狭い街路に無数の店が建ち並ぶ。旧市街には、キリスト教徒の一角がある。それは中世以来取引が続いたヨーロッパ商人の街だ。南よりの一帯のアンダルス地区はレコンキスタを避けてイベリア半島から逃れてきた人々が居着いたところだ。北側にはユダヤ人居住区があり、ユダヤ人は都市機能の重要な部分を担っていた。さらにトルコ人地区もある。16世紀のオスマン帝国の征服以来、軍隊と共にやってきた官吏たちが定住したところだ。このようにチュニスにはマグレブのベルベル人を基層として、ヨーロッパ人、アラブ人、アンダルス人、ユダヤ人、トルコ人などの文化が重層しており、まさに「地中海史」そのものと言うことができる。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.40-43>