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社会主義者鎮圧法

1878年、ドイツ帝国のビスマルクが制定した社会主義運動を抑圧する法律。いわばムチの政策として制定し、一方でアメの政策として社会保障の実施を打ち出した。皇帝ヴィルヘルム2世が即位すると、鎮圧法の廃止に踏み切り、反対したビスマルクを1890年に辞職させた。

 ドイツ帝国のビスマルク政府が社会主義運動に対する抑圧策として1878年に制定した法律で、正確には「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律」。一般に「社会主義者鎮圧法」と言われる。
 1840年代の産業革命によって、ドイツでも多くの工場労働者が生まれ、その中から労働者の解放を目指す社会主義運動が起こってきた。1875年にはラサール派とマルクス主義派(アイゼナッハ派)がゴータで合同大会を開き、世界最初の労働者の単一政党である、ドイツ社会主義労働者党(90年、ドイツ社会民主党に改称)を結成した。この動きは、ビスマルクの出身階層である土地貴族ユンカーや資本家層には大きな脅威となってきた。

ビスマルクによる制定

 ビスマルクはこのような社会主義者の進出を恐れ、1878年に皇帝ヴィルヘルム1世狙撃事件が起こるとそれを社会主義者の仕業であると宣伝して恐怖心をあおり、同年、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律」、一般に「社会主義者鎮圧法」といわれる法律を制定した。これは社会主義、共産主義の集会、結社、出版、デモなど一切を取り締まり、警察にそのような活動をした人物を追放する権限を与えた内容であった。
 こうしてドイツ社会主義労働者党は非合法とされ、地下に潜った。ビスマルクは一方で労働者を社会主義者から遊離させるため、独自の社会保障制度の制定などの社会政策を進めた。この鎮圧法は、“アメとムチ”といわれたビスマルクの労働者・社会主義運動に対する対策の、ムチにあたる政策であった。

社会主義者鎮圧法の廃止

 1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、ヴィルヘルム2世が即位すると、新皇帝はビスマルクを嫌って親政を行おうとし、ビスマルクが社会主義者鎮圧法を継続しようとしたことに反対してその延長を認めなかったため、この法律は1890年に廃止された。
ビスマルクとヴィルヘルム2世の対立 1878年に制定された社会主義者鎮圧法に対して、帝国議会はいつも短期間に限って延長を認めてきたので、90年9月末で満期が予定されていた。ところが、1889年5月、ルール地方の炭鉱で大規模なストライキが起こり、それがまたたく間にラインラント、ヴェストファーレン、ザール、ザクセン、シュレジェンなど全ドイツの炭鉱に広がった。これにたいして前年に即位したばかりのヴィルヘルム2世(30歳)は、労働時間の短縮・労使調停機関の設立などを内容とする労働者保護法を制定して解決に当たろうとした。しかし、宰相ビスマルクはそれに強く反発し、89年10月、社会主義者鎮圧法の無期限延期を帝国議会に上程した。帝国議会はその審議を巡って紛糾したが、90年1月についにそれを否決した。力を得たヴィルヘルム2世は2月4日、労働者保護立法に関する勅令を発布した。
ビスマルクの退陣 ビスマルクは、ストライキでブルジョワジー(資本家、ユンカー層)の危機感が高まり、社会主義者鎮圧法の無期延期を支持するだろうと考えたが、議会はその想定通りには行かず、2月20に行われた総選挙では与党の国民自由党、自由保守党、保守党が敗れ、社会民主党が150万票を得て躍進した。ドイツ帝国は議院内閣制ではないので宰相は議会で信任を失っても辞任する必要はなく、責任をもつのは皇帝に対してだけであった。ビスマルク政権はヴィルヘルム2世が信任するかどうか、にかかっていた。
 ヴィルヘルム2世の側近の参謀総長ヴァルダーゼーは、ひごろビスマルクの親露政策に不満を持っていたので、外交がビスマルクに専断されていると訴えたこともあって、ヴィルヘルム2世はビスマルクを排除することを決意、その辞職を迫った。3月18日、ビスマルクは長文の辞表をしたため、カイザー(皇帝)に提出した。「ホーエンツlレルン家とビスマルク家のいずれが帝国を統治すべきか」という対決はビスマルクの辞職によって決着した。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院 p.26-30>

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