公正な仲介人(誠実なる仲買人)
ドイツの宰相ビスマルクが1878年、ベルリン会議を開催し、露土戦争後のロシアとオーストリア・イギリスの対立の解決に当たった際に、自ら「公正な仲介人」と称した。
1870~80年代、ドイツ帝国の外交政策を推進したビスマルクはヨーロッパで最強の軍国主義体制を作り上げるとともに、フランスを孤立化させ、周辺諸国との間でドイツにとって有利な同盟関係(その多くは秘密外交で)を結んでいくことに努めた。そのような外交のあり方はビスマルク外交といわれている。その一環としてビスマルクは、列強間の対立を調停することによってドイツの国際的な地位を高めるとともに、自国の安全保障を得ようとして、自ら「公正なる仲介人」と称して積極的に調停者の役割を担った。露土戦争後、バルカン半島におけるロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国(以下オーストリア)・イギリスの対立が深刻になるなか、1878年6月にベルリン会議を開催した。その年2月の帝国議会における演説で、ビスマルクは「取り引きの成立を真に願う公正な仲介人※」と自らの立場を説明した。
※「公正な仲介人」とは、ドイツ語では、Die Rolle des ehrlichen Maklers といい、公正は誠実な、忠実ななどとも訳され、仲介人は仲買人とかブローカーとも訳される。「誠実な仲買人」という言い方も一般的。
ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は東方問題といわれるバルカン半島での厳しい対立関係にあった。またイギリスは、インド植民地を安定的に支配するためにはエジプト支配は必須と考えており、ロシアが南下政策を進めて東地中海方面に進出してくることを警戒していた。
ビスマルクはこの三国のうちの一国がバルカン方面で覇権を握ることは、ヨーロッパ強国のバランスを壊し、ひいてはドイツの安定の脅威となると考えた。そのため利害を異にするこの三国の対立を回避すべく調停外交を展開した。その際に、ドイツはすでに「充足国家」であると称してドイツ自身はこの地域に領土的野心はないことを表明して信用を得ようとした。
事態が緊迫するなか、1878年6月にビスマルクが調停に乗り出し、ベルリン会議を開催した。そこでの協議は、ビスマルクがロシア・イギリス・オーストリア三国にそれぞれ一定の利権を与えて納得させることに成功、前提としてロシアにサン=ステファノ条約を破棄させ、改めてベルリン条約を締結した。
特にロシアは支援したブルガリアの領土が大幅に削られ、オスマン帝国の宗主権が認められたことには強い不満がのこった。ロシアからすれば、イギリスにキプロス島が与えられたことは地理的に離れた東地中海にイギリスの支配が及ぶことでイギリスが優遇されたと感じられた。また、オーストリアにボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を認められたことは、ロシアおよびスラヴ国家であるセルビアにとって、強く不満を感じる点であった。
ベルリン条約によって一応の戦争の危機は回避されたバルカンにおけるパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立という点では、返って大きな禍根を残すことになった。ロシアは次第にビスマルクの外交に不信を持つようになり、それは反転してフランスとの接近が始まるという結果をもたらした。ロシアとフランスの同盟は、ビスマルクが最も恐れた「悪夢の同盟」であり、ビスマルク自身の調停がその萌芽となったとすれば皮肉な結果と言える。
ビスマルクはその後、アフリカにおけるヨーロッパ諸国の対立を調停する役割も担って、1884年~85年にはアフリカに関するベルリン会議(ベルリン・コンゴ会議)を主催している。
※「公正な仲介人」とは、ドイツ語では、Die Rolle des ehrlichen Maklers といい、公正は誠実な、忠実ななどとも訳され、仲介人は仲買人とかブローカーとも訳される。「誠実な仲買人」という言い方も一般的。
ビスマルクはなぜ調停しようとしたか
ビスマルクはドイツ帝国の地位の安定にはフランスを孤立させておくことが最も重要と考えると同時に、そのためにはロシア、オーストリアという大陸の二大国との関係、及び当時最大の工業力を誇るイギリスとの関係を重視した。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は東方問題といわれるバルカン半島での厳しい対立関係にあった。またイギリスは、インド植民地を安定的に支配するためにはエジプト支配は必須と考えており、ロシアが南下政策を進めて東地中海方面に進出してくることを警戒していた。
ビスマルクはこの三国のうちの一国がバルカン方面で覇権を握ることは、ヨーロッパ強国のバランスを壊し、ひいてはドイツの安定の脅威となると考えた。そのため利害を異にするこの三国の対立を回避すべく調停外交を展開した。その際に、ドイツはすでに「充足国家」であると称してドイツ自身はこの地域に領土的野心はないことを表明して信用を得ようとした。
露土戦争の勃発
1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争)が始まると、ロシアは次々と勝利を占め、オスマン帝国を追いこんでコンスタンティノープルに迫った。やむなく講和に応じたオスマン帝国との間で1878年3月にサン=ステファノ条約を締結し、ロシアはベッサラビアを獲得すると共に、その影響力の強いブルガリアの領土を拡げ、自治国とすることをオスマン帝国に認めさせた。ベルリン会議の召集
このことでロシアがブルガリアを拠点にバルカンに勢力を拡げ、さらにオスマン帝国に圧力をかけ、黒海からボスフォラス・ダーダネスル海峡を経て東地中海に進出ことが可能になるので、オーストリアとイギリスは強く反発した。とくにイギリスはロシアを牽制するため海軍を派遣し、そのままではヨーロッパ列強間の戦争に転化する恐れが出てきた。事態が緊迫するなか、1878年6月にビスマルクが調停に乗り出し、ベルリン会議を開催した。そこでの協議は、ビスマルクがロシア・イギリス・オーストリア三国にそれぞれ一定の利権を与えて納得させることに成功、前提としてロシアにサン=ステファノ条約を破棄させ、改めてベルリン条約を締結した。
ビスマルクの調停の本質
ビスマルクが列強の対立を調停する際に用いた構想は、「領土補償構想」とも言うべきもので、列強に対して一定の領土獲得を補償することによって互いに妥協させるという伝統的な手法であった。(引用)このとき彼が思い描いていたのは、オスマン帝国を犠牲にして、イギリスにはエジプト(スエズ)を、ロシアにはクリミア戦争で失ったベッサラビア地方(あるいはブルガリア)を、そしてオーストリア・ハンガリーにはボスニア・ヘルツェゴヴィナを割り当て、当地への進出を積極的に支援するというものであった。ドイツ帝国がウィーン体制に基づくそれまでの国境線の変動を伴って成立したことを受け、その代償を各国に提供することで新たな勢力均衡に基づく国際秩序を作り出そうとしたのである。<飯田洋介『ビスマルク』2015 中公新書 p.185>
Episode トルコの犠牲でヨーロッパに平和を!
このようなビスマルクの「領土補償構想」という仲介の本質は次のような彼自身の言葉にも現れている。飯田氏の著作の孫引きであるが、ビスマルク自身の考えが彼自身の言葉で語られてい部分を書き抜いてみよう。(引用)現時点で私はただ、もし皇帝アレクサンドル(2世)のような温厚な国内状況のゆえにトルコ(オスマン帝国)にいるキリスト教徒の支援へと駆り立てられるようであれば、イギリスはそのためにロシアに対して宣戦布告するのでなく、スエズとアレクサンドリアを占領すべきであり、それによって、たとえトルコを犠牲にしてでも、ヨーロッパの平和を維持すべきであると考えている。(1876年10月20日付ヴァルツィーン口述書)<飯田洋介『ビスマルク』2015 中公新書 p.187>ビスマルクが「公正な仲介人」となれたのは、オスマン帝国を犠牲に、それから奪った果実をロシア、イギリス、オーストリアに与えることによって満足させる、ということだったのだ。
ビスマルク仲介の結果
ベルリン会議において、ビスマルクは「公正な仲介人」と称して、公平な裁定を行うと宣言し、オスマン帝国を黙らせてその犠牲の上にロシア・イギリス・オーストリア三国に一定の納得を引き出し、ベルリン条約の調印まで持ち込んだので、その名声は高まった。しかし、三国の満足は必ずしも十分な納得のあったものではなかった。特にロシアは支援したブルガリアの領土が大幅に削られ、オスマン帝国の宗主権が認められたことには強い不満がのこった。ロシアからすれば、イギリスにキプロス島が与えられたことは地理的に離れた東地中海にイギリスの支配が及ぶことでイギリスが優遇されたと感じられた。また、オーストリアにボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を認められたことは、ロシアおよびスラヴ国家であるセルビアにとって、強く不満を感じる点であった。
ベルリン条約によって一応の戦争の危機は回避されたバルカンにおけるパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立という点では、返って大きな禍根を残すことになった。ロシアは次第にビスマルクの外交に不信を持つようになり、それは反転してフランスとの接近が始まるという結果をもたらした。ロシアとフランスの同盟は、ビスマルクが最も恐れた「悪夢の同盟」であり、ビスマルク自身の調停がその萌芽となったとすれば皮肉な結果と言える。
ビスマルクはその後、アフリカにおけるヨーロッパ諸国の対立を調停する役割も担って、1884年~85年にはアフリカに関するベルリン会議(ベルリン・コンゴ会議)を主催している。