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ベルリン条約

1878年、東方問題に関するベルリン会議でビスマルクの調停によって成立した条約。バルカン半島でのロシアの侵出を抑え、イギリス・オーストリアに有利な調停となった。オスマン帝国はバルカン半島の領土の大部分を失った。

 1878年ベルリン会議の結果、「東方問題」の最終的な解決として、ドイツ帝国のビスマルクの調停によって成立した条約。これによって露土戦争の結果としてロシアがサン=ステファノ条約で獲得した領土は大幅に削減された。しかしなおオスマン帝国にとってもそのバルカン半島の領土をすべて失うこととなり、大きな打撃となった。
主な内容はバルカン半島に関する領土の調停であり、次のようなものであった。
 → 条文の抜粋は、<歴史学研究会『世界史史料6』2007 岩波書店 p.281-282>
 なお、ベルリン会議ではバルカン半島以外の調停も行われ、次の合意が成された。
  • イギリスは、オスマン帝国からキプロス島の統治権を認められる。
  • フランスのチュニス進出の承認。(いつチュニスを占領してもいいということで、フランスは1881年に実行する。)

ベルリン条約の意義とその後

ビスマルク外交の展開 露土戦争で頂点に達したロシアの南下政策はいったん抑えられ、オスマン帝国領でのバルカン諸国の独立、イギリスとオーストリアにとって有利な領土調停が成立した。ヨーロッパの勢力バランスの維持を図るビスマルク外交の典型であった。また、ベルリン条約得大きな犠牲を強いられたのがオスマン帝国であった。「公正な仲介人」と自称したビスマルクが構想したのは、オスマン帝国の犠牲の上に、ヨーロッパ列強の対立を抑え、平和を実現することであった。
 しかしこの結果、ドイツとロシアの関係は次第に悪化し、ロシアはフランスに接近する。危険を感じたビスマルクは、1882年に三国同盟でオーストリア、イタリアと手を結び、さらにロシアに働きかけ、1887年に独露再保障条約を締結することとなる。
オスマン帝国 専制政治の復活  オスマン帝国にとっては、ベルリン条約でバルカン半島の領土の殆どを失うことになり、イスタンブル付近を残すのみとなった。失われた領土から、約150万ものイスラーム教徒がイスタンブル及び小アジアのオスマン領に流入し、社会不安が増大した。アブデュルハミト2世は露土戦争が始まり、ロシア軍がイスタンブルに迫ると権力を集中するために、議会を封鎖、ミドハト憲法を停止していたが、サンステファノ条約で講和、さらにベルリン条約を受け入れた上で、危機的状況に対応して専制政治を復活させた。オスマン帝国ではタンジマートと言われた近代化政策が頓挫して、ベルリン条約から30年間はスルタン専制が続く。