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キプロス島/キプロス紛争

東地中海最大の島で古くから海上交易の拠点として繁栄。十字軍の基地ともなる。オスマン帝国領であったが1878年、イギリスがベルリン会議でキプロスの管理権を認められ、さらに1923年に併合を強行した。第二次大戦後、1960年に独立したが、ギリシア系とトルコ系の住民間に紛争が起き、分裂状態になる。

キプロス島地図
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 キプロス島 Cyprus は小アジアの南に位置する東地中海最大の島。地中海全体では、シチリア島、サルデーニャ島に次いで三番目に大きい。東地中海の海上交通の要衝として重要であった。その位置は、北緯35°で日本の京都と同じ。広さは日本の四国よりやゝせまい。
 キプロスは古代にはアラシアといわれていたが、古来、良質の銅が産出したことで知られる。(クプルム)を産出することから、キプリウム、さらにキプロスと言われるようになった。クプルムは銅を意味する英語 copper の語源でもある。
 現在ではギリシアから遠く、トルコに近いが、神話ではギリシア神話のアフロディーテ(ヴィーナス)の生地とされているように、古くからギリシア人が入植し、その文化圏に入っていた。そのため、現在も島の南部にはギリシア系住民、北部にはトルコ系住民が多く、イギリスから独立後も対立が続いている。 → 現在のキプロス(イギリスからの独立とキプロス紛争)

キプロス島の歴史(独立まで)

 地中海世界の中で重要な位置を占めていたので、さまざまな勢力が交替した。前15世紀前半にはエジプト新王国のトトメス3世の支配下にあったが、ミケーネ時代ギリシア人が植民活動を行って移住し、ギリシア文化圏と接触した。
 前11世紀半ばまでに、キプロスは地中海域で最も早く鉄器時代に入っている。鉄器は小アジアのヒッタイトに伝えられ、キプロス島を経由して、前1000年頃までにクレタ島とギリシア本土に伝わったと考えられる。
 さらに前820年にはキプロス島のキティオンに地中海東岸のフェニキア人が植民市を建設し、その地中海全域への活動範囲の拡張が始まった。こうしてキプロス島はギリシア人とフェニキア人が接触する場所として、フェニキア文字からギリシア=アルファベットが生み出される上で重要は場所であったと考えられる。
 その後、オリエントに起こった世界帝国であるアッシリア帝国、ついでアケメネス朝ペルシア帝国の支配をうけることとなったが、ペルシア戦争後、海軍力を有したアテネがキプロスにも勢力を伸ばした。

ヘレニズム時代からローマ属州時代へ

 ヘレニズム時代にはプトレマイオス朝エジプトが、パレスティナやシリアと共にキプロス島も支配下にいれた。前3世紀の初めには、後にアテネに出てストア派の哲学の祖となったゼノンがキプロス島で生まれている。
 前2世紀には、ローマの勢力が東地中海におよび、キプロスは小カトー(大カトーの孫)の率いるローマ軍に征服され、前58年にローマ領のキュプラス属州となった。その後、ローマ帝国が東西に分裂(395年)すると東ローマ帝国に属し、そのままビザンツ帝国の時代へと続いた。その間、7世紀以降はイスラーム教の勢力が及んできてビザンツ帝国との抗争がつづいた。

十字軍時代

 十字軍時代の1156年、十字軍国家の一つアンティオキア公国の支配者ルノー=ド=シャンティヨンがビザンツ領であったキプロスに侵入し、略奪行為を働くという事件が起こった。1191年には第3回十字軍に参加したイギリス王リチャード1世(獅子心王)がキプロスを奪い、そこを基地として人員と軍需品を満載した25隻のガレオン船を準備し、アッコンを攻撃した。リチャード1世はイェルサレム奪回は成らず、サラーフ=アッディーン(サラディン)と講和して帰国するが、その時、かつてヒッティーンの戦いでサラーフ=アッディーンに敗れたイェルサレム王国のギー=リュジニャンにキプロス島を与えた。それ以後、キプロス島は約4世紀にわたって、ギーの子孫が治めるリュジニャン朝が続いた。その間、1248年には第6回十字軍を起こしたフランス王ルイ9世がエジプト攻撃の基地としてキプロスに入り、その地でエジプトを挟撃するためにモンゴルの使節を迎えて協議している。しかしこのエジプト攻撃はルイ7世自身が捕虜となる敗北を喫して失敗に終わった。1291年、イェルサレム王国の最後の都アッコンが陥落して十字軍時代が終わると、アッコンから多くの避難民がキプロスに渡った。イェルサレムの聖地保護のために結成されたテンプル騎士団もその拠点をキプロスに移した。

オスマン帝国の支配

 15世紀以降はジェノヴァヴェネツィアの商人が進出、東方貿易の拠点とされた。15世紀末にはヴェネツィアの支配下に入ったが、しかし、1571年にオスマン帝国によって征服され、東方貿易は困難になった。オスマン帝国のキプロス占領に対抗するため、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアのキリスト教連合艦隊が結成され、レパントの海戦でオスマン海軍を破ったが、オスマン帝国は反撃に転じ、1574年にチュニスを征服し、地中海の制海権を維持した。東方貿易自体もオスマン帝国が高関税を賦課したために困難となり、それがイタリア商人を新航路開拓へと向かわせ大航海時代が始まることとなった。
 キプロス島ではオスマン帝国の支配下でイスラーム化が進んだが、ギリシア系住民はそのまま存続し、ギリシアへの帰属を求めるエノシス運動という運動が起こっている。

イギリス領となる

 露土戦争後の1878年、ドイツのビスマルクが召集したベルリン会議は、バルカン半島におけるロシア勢力の拡張を警戒したイギリスの意向を受け、キプロス島に関しても話し合われ、イギリスの管理権をオスマン帝国が認めた。イギリスはロシアの中東方面への侵出を警戒し、中東支配の基地としてキプロスを位置づけていたのであり、イギリス帝国主義の一環であった。第一次世界大戦が起こり、オスマン帝国が同盟側につくと、戦後イギリスはキプロス併合を強行し、1923年に直轄植民地とした。


キプロスの独立とキプロス紛争

1955年、ギリシア系住民が立ち上がり、1960年、イギリスからキプロス共和国として独立。しかし、トルコ系住民との衝突が続き、83年に北キプロス・トルコ共和国が分離独立を宣言、現在も南北対立が続いている。

イギリスからの独立

キプロス共和国国旗
キプロス共和国国旗
 キプロス島はイギリス帝国主義の西アジア支配の拠点とされていたが、第二次世界大戦後、キプロスのギリシア系住民(80%を占める)がギリシア正教のマカリオス大司教らの指導でギリシアへの統合を主張し、イギリスと対立、1955年には暴動が起こった。イギリスはキプロスのギリシア統合は認めず、独立を認める代わりに軍事基地2カ所を確保し、1960年にキプロス共和国として独立した。軍事基地2ヶ所とは島の南部のアクロティリとデケリアであり、「イギリス主権基地領域」としてイギリス軍が現在も使用している。現在もキプロス共和国は返還を求めているが、イギリスは応じていない。

キプロス紛争

 キプロスには約20%のトルコ系住民が存在し、ギリシア系住民との間で64年、67年に武力衝突が発生した(キプロス紛争)。さらに1974年、ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発したトルコ共和国が出兵し、北キプロスを占領した。トルコの占領は続き、83年には一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言した。こうしてキプロスは南北で分断されたが北キプロスを承認したのはトルコのみに留まっていて、国際的な承認は得られていない。キプロス共和国はトルコ以外のすべての国から承認を受けているが、キプロス島の北半分は実効支配できていない。南北の境界線上には国連が設定した緩衝地帯が置かれ、現在は軍事衝突は起こっておらず、国連の仲介で両者の話し合いが断続的に行われている。2004年5月のEU加盟は「キプロス共和国」のみの加盟となった。

NewS 新たな紛争の発生

 2009年以降、キプロスをめぐるトルコと周辺国をめぐる「東地中海」に新たな火種がうまれている。それは、2009年に東地中海でガス田が相次いで発見され、その採掘権をめぐって、キプロスをはじめ、トルコ、ギリシア、シリア、イスラエルなどの間の利害の違いがはっきりしたことである。キプロス南部を支配するキプロス共和国はギリシアなどと協力してガス田を開発し、ヨーロッパに輸出する計画に取り組んでいるが、パイプラインが通るトルコが、2019年12月、シリアとの間で排他的経済水域(EEZ)の境界で合意し、パイプラインを阻止するかまえに出た。それに対して今度はギリシアがトルコの主張するEEZがクレタ島を無視して線引きされていると反発している。またシリアは現政権(アサド大統領)が東部の実効支配ができないでいるため、トルコの支援を必要としており、ガス田開発とパイプラインをめぐって、東地中海域ににわかに緊張感が高まっている。<2019/12/26>
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