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地下鉄道運動

アメリカ合衆国の1830~60年代、南北戦争にかけて盛んに行われた自由を求めて逃亡した南部の黒人奴隷を支援する運動。はじめ逃亡奴隷は北部の自由州を目指したが、1850年の逃亡奴隷法が制定されてからはさらに北のカナダを目指した。

 アメリカ合衆国南部で黒人奴隷制が公認されていた奴隷州の綿花プランテーションでは、黒人奴隷は人権が認められず、奴隷主(白人農園主)の財産として所有され、売買の対象となっていた。また彼らに対する苛酷な労働の強制は、彼らを悲惨な状況に追いこんでいた。イギリスでの奴隷制度廃止の影響もあって、アメリカでも1830年代になると北部自由州の白人の中に、黒人奴隷制に反対する人々が現れた。彼らはそれ以前から起こっていた黒人奴隷が逃亡して自由州に逃れるのを秘かに支援する運動が始まった。その運動は、人道的な立場から奴隷の境遇に同情した教会の牧師や、解放された黒人によって秘かに組織化され、そのルートは地下鉄道(アンダーグラウンド・レイルロード)と言われた。もちろん実際に地下鉄道があったわけではなく、黒人を秘密裏に逃亡させるルートを鉄道、拠点となる宿舎を駅、導く先導者を車掌などと呼んで、組織を守るために名づけたのだった。

「地下鉄道」の名称

 「地下鉄道」Underground Railroad という言葉が活字になったのは1839年のワシントンDCの新聞が最初であるが、ことばとしてはすでに1831年頃に使われていたという報告もある。もちろん、実際に地下鉄道が開通していたわけではない。南部の黒人奴隷を北部自由州に逃す奴隷制廃止運動家たちの運動が「地下鉄道運動」と比喩的に呼ばれたのは、当時アメリカで実際の鉄道が1827年に建設が始まり1840年代に急速に普及し、鉄道=レイルロードという言葉が一般に使われるようになったことを反映している。ただし、地下鉄は1863年にロンドンで始まり、アメリカでは1904年のニューヨークが最初であるから、この時期には存在していない。逃亡奴隷達を追跡者の目につかないように逃すための秘密のルートであったことから、あたかも地下を通る鉄道のようなものだったので、自然に生まれた言葉だった。<以下、上杉忍『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 p.102 などにより構成>

地下鉄道のルート

 地下鉄道のルートは、南部奴隷州から北部自由州に向かって幾筋もあり、広大な森林や原野、山や川をわたり、追跡者の目をごまかすようにつくられた。着の身着のままで脱走した奴隷はほとんどは徒歩で何日もかかり、途中の支援者に匿われながら、北極星を頼りに北に向かった。多くは男だったが、女であったり子どもであることもあった。支援者となったのはキリスト教の教会やクェーカー教徒の農民であったが、自由州に生まれた解放奴隷の黒人も多かった。逃亡した奴隷は南部と北部の境界であるメイソン=ディクソン線を越え、ペンシルヴェニア州やオハイオ州にはいれば追っ手の追跡を逃れられた。ペンシルヴェニアのフィラデルフィアは彼らが目指す都市の一つだった。
ダグラスとタブマン 逃亡奴隷の一人、フレデリック=ダグラスは1838年にメリーランドの農園から脱走しマサチューセッツ州に逃れ、1841年に奴隷制反対協会に加入し、『北極星』という新聞を発行し、奴隷解放の先頭に立った。彼は後の南北戦争ではリンカン大統領の顧問となり黒人部隊を率いて参戦している。またもっとも有名な地下鉄道の「車掌」として女性のハリエット=タブマンがいる。彼女は1849年9月、メリーランド州の農場を脱走し、一人でフィラデルフィアに逃れ、その後何度も故郷に戻り兄弟や仲間の脱走を助け、厳しい追跡を受けながら、いずれも成功し、黒人たちから“モーゼ”といわれた。

1850年 逃亡奴隷法制定

 黒人奴隷の脱走は、奴隷主である白人プランターにとっては財産であるので、許されないことであった。奴隷が脱走すると奴隷追跡人を雇い、いわゆる奴隷狩りを行い、償金を出してつかまえようとした。脱走奴隷を殺してしまったり、傷つけたりすると財産を失うことになるので、追跡人は奴隷を生け捕りにしなければならないが、いったん捕まって奴隷主に引き渡されると、見せしめのために死なない程度で鞭打たれた。それでも逃亡奴隷は減らず、取り締まりに手を焼いた農場主達は政治家を動かし、1848年9月に連邦議会は逃亡奴隷法を制定した。それは北部の自由州に対しても逃亡奴隷の逮捕の義務を定め、捉えた奴隷は奴隷主に引き戻されることを定めていた。これによってアメリカ北部も逃亡奴隷にとって安住の地ではなくなったため、彼らはさらに北に向かい、カナダに逃れざるを得なくなった。

カナダへのルート延長

 こうして1850年代には地下鉄道のルートはさらに北に延び、国境を越えカナダを目指すことになった。当時まだイギリス領であったカナダは、1833年に本国のイギリスで奴隷制度が廃止になっているので、国境を越えれば自由が得られたのだった。ハリエット=タブマンもニューヨーク州のオールバニーを経てナイヤガラ渓谷を越え、カナダのオンタリオ州セント・キャサリンズへのルートを開拓しなければならなかった。カナダの寒冷な気候と、生きるために仕事を見つけなければ奈良成ったことは黒人にとって苛酷な試練であったが、それによって何物にも代えられない自由を勝ち取ることが出来た。<上杉忍『上掲書』>

「約束の地」

 地下鉄道の活動は秘密裏に行われたので正確な数字を割り出すことは難しいが、1830年から1860年のあいだに7万から10万の奴隷逃亡者が北部に逃れ、そのうち約3分の1から4分の1が国境を越えてカナダに渡ったと推測される。
 奴隷州地域の最北端に位置するケンタッキー州は、オハイオ川を渡った先が自由州のオハイオであることから北部への脱出ルートとして重要な州だった。オハイオ川はさまざまな箇所から季節を問わず渡ることが可能だった。オハイオ州オーバリンは奴隷制廃止論者の伝統がある町で、逃亡奴隷の拠点となっていた。1802年に奴隷制度を廃止していたオハイオ州であったが、次第に南部からの黒人移住を取り締まるようになり、移住した奴隷は登録を義務づけ、20以内に500ドルの保釈金を払うことが要求された。「約束の地」はそれほど居心地がよかったわけではなく、すべて自分で稼がなければ生活できないことは奴隷として生きてきた黒人には容易ではなかった。

Episode ミットナイトからドーンへ

 1850年の逃亡奴隷法制定以降は逃亡奴隷はカナダを目指すようになった。そのころミシガン州デトロイトは「ミッドナイト」(真夜中)というコード名で呼ばれ、そこからデトロイト川を越えるたカナダの町、ウィンザーのコード名は「ドーン」(夜明け)であった。南北戦争の前、約3万人の黒人奴隷が国境を渡りカナダへ移住したが、その経路は「ミッドナイト」から「ドーン」だった。
 カナダはイギリス領ですでに奴隷制度を廃止していたので、その地で自由を獲得した黒人は二度と南部プランテーションに引き戻される不安はなかった。ただし、カナダも既存のコミュニティに黒人が大量に流入することは好まず、新たなコミュニティを作らせた。オンタリオのエルジン、ドレスデン、ウィルバーフォースなどがよく知られた黒人入植地だった。黒人のコミュニティが形成されると、新しく逃亡してきた黒人は温かく迎えられた。<バーダマン/森本豊富訳『アメリカ黒人史』2020 ちくま新書 p.73-80>

南北戦争と地下鉄道運動の終わり

 アメリカにおける北部の奴隷制反対の声(リンカンのような奴隷制拡大反対もふくめ)は次第に強くなり、1861年、共和党のリンカン大統領が大統領に就任したことによって南部の奴隷制維持を主張する州はアメリカ連合国を作って分裂、南北戦争が勃発した。南部の黒人奴隷の脱走と支援組織も活動も続いたが、北部と南部の境界では激しい戦闘が繰り返されるようになったため、地下鉄道運動は次第に出来なくなっていった。1863年1月に奴隷解放宣言が出され、北軍の勝利に終わったことで、地下鉄道運動は役割を終えた。
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書籍案内

上杉忍
『ハリエット・タブマン―「モーゼ」と呼ばれた黒人女性』
2019 新曜社

ジェームズ・バーダマン
森本豊富訳
『アメリカ黒人史』
2020 ちくま新書