リンカン
第16代アメリカ合衆国大統領(共和党、在任1861~65年)。1861年からの南北戦争で北部を指導、63年に奴隷解放宣言を出した。第2期途中の65年に暗殺された。アメリカ合衆国では「偉大な解放者」であり、国家の統一と民主主義を守った大統領として尊敬されている。
リンカンの生涯
Abraham Lincoln
(National Archives, Still Picture Branch, 111-B-3658)
奴隷制拡大反対論者となる 1850年代に入ると、アメリカ合衆国の北部と南部で、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかで激しい対立が生じた。リンカンは黒人奴隷制については奴隷制即時廃止論(アボリショニスト)には混乱を招くとして反対し、南部諸州の奴隷制維持は認めるがその北部への拡大には反対して漸進的に廃止に持っていくのがよいと考えていた。 → リンカンと黒人奴隷制度
しかし、1851年にストゥの『アンクル=トムの小屋』が出されて奴隷制反対運動が盛り上がる一方、54年にカンザス・ネブラスカ法の成立、57年にドレッド=スコット判決が出されるなど奴隷制拡大派が優勢になると危機感を強め、みずから政界に復帰して、56年に共和党に入党した。 → 共和党に参加
大統領就任と南北戦争 次第に黒人奴隷制拡大に反対する論陣を張り注目され、共和党から大統領候補に指名されて立候補し1860年11月に当選、第16代アメリカ大統領となった。 → 大統領就任
南部諸州は直ちに反応、12月に分離を決定し、翌年2月にはジェファソン=デヴィスを大統領に選出、「アメリカ連合国」を発足させた。3月に合衆国第16代大統領として就任したリンカンは南部の分離主義を厳しく批判したが、奴隷州でありながら中立を守った州もあったので、奴隷制廃止は明言しなかった。しかし南北の対立は1861年4月、サムター要塞の攻防戦で火ぶたを切り南北戦争へと突入、リンカンは軍の最高司令官として戦争指揮に当たることとなった。 → 南北戦争の開戦
奴隷解放者となる 戦争は南部が優勢であったが、リンカンは1862年1月、ホームステッド法で西部農民の支持を取り付け、さらに9月、奴隷解放宣言の予備宣言(本宣言は1863年1月1日)をおこない、奴隷制度廃止、黒人奴隷解放を明確な戦争目的として掲げることによって国際世論の支持を受け、1863年7月にはゲティスバーグの戦いで北軍のグラント将軍が、南軍のリー将軍のを破り、情勢を逆転させた。1863年11月にはその戦勝の地で有名な「人民の、人民による、人民のための」政治という演説をおこなった。 → 奴隷解放宣言の発布
1864年、大統領に再選され、翌1865年4月9日に南軍が降伏、戦争を終わらせたが、その直後の1865年4月14日、熱狂的な南部派の俳優ブースによって暗殺された。大統領には憲法の規定により、副大統領のアンドリュー=ジョンソンが昇格した。 → リンカンの暗殺
以下、節目における彼自身の言葉を『リンカーン演説集』から抜粋しながら見ていこう。
リンカンと黒人奴隷制度
リンカンは、黒人奴隷制度に対しては当初は、その拡大には反対であったが、必ずしも即時廃止論者ではなかった。大統領就任前から表明していた立場は「奴隷制度が布かれている州に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限はない」(1861年3月4日第一次大統領就任演説)というものであった。つまり、黒人奴隷制度には反対だが、南部を引き留めるためにはやむを得ない。その拡大さえさせないでいれば、自然に消滅するだろう、と考えていた。この楽天的な見方が間違いであったとリンカンが気づいたのが、1854年のカンザス・ネブラスカ法の成立によって北部の新しい州に奴隷州を造ることはできないと定めたミズーリ協定が破棄され、ドレッド=スコット判決で最高裁が連邦政府が自由州での奴隷制を認めないのは憲法違反であるという判決を出したことであった。(引用)私は常に奴隷制度に反対してきましたが、現在(1858年7月17日)までのところ、奴隷制度が最後には消滅するという方向に向かって進んでいることを希望し、またそう信じていました。そのために、奴隷制度は私にとって比較的小さな問題でした。私は間違っていたかもしれません。しかし私は輿論全体が、即ち大多数の者が、ミズーリ協定廃棄(すなわちカンサス・ネブラスカ法制定)までは、かく信じて安んじていたものと信じていましたし、現在もそう信じています。しかしこの事件により、私はいままでは妄想にとらわれていたのか、あるいは奴隷制度が新しい土台――この制度を恒久的、国家的、普遍的なものたらしめようとする土台――におかれるようになったのか、そのどちらかに違いないと信じるようになりました。……このミズーリ協定の廃棄をきたす法律は、その目的のための陰謀の端緒をなすものと信じます。このために、私は奴隷問題を最大の問題とみるに至ったのであります。<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』1957 岩波文庫 p.57>これはカンザス・ネブラスカ法を提案した民主党のダグラスとのあいだでかわされた論争の一節である。リンカンにとってはカンザス・ネブラスカ法成立に引き続き、最高裁のドレッド=スコット判決が、連邦議会には奴隷制度禁止を新たな州に命じることは憲法違反であると判断したことも衝撃だった。彼はこの動きを時の民主党の大統領ピアースらが司法を巻き込んで作り上げた陰謀であると捉え、それを許せば黒人奴隷制度は拡大どころか、永久に定着してしまうと考え、それと戦うために中央政界に復帰することを決意し、54年の上院議員選挙にイリノイ州から立候補したが敗れてしまった。
共和党への参加
リンカンは地方議会議員であったときからホイッグ党の党員であったが、ホイッグ党は黒人奴隷制問題が深刻となると、奴隷制度拡大反対か、即時廃止か、維持拡大容認か、などで党員の意見が割れ、内部が混乱して弱体化した。リンカンは、黒人奴隷制度の拡大を認めることは、アメリカ合衆国という国家の中に、相容れない社会が二つ固定されることになるとして否定し、「すべての人は平等に造られている」という独立宣言の原則で成り立っているアメリカ合衆国の統一を維持するために1856年、共和党の結成に加わった。このリンカンの理念をよく示しているのが、1858年6月のスプリングフィールドにおける共和党州大会での演説「分かれたる家は立つこと能わず」である。(引用)この(奴隷制度)拡大運動はやむどころか、ますます昂じてきました。思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3の25)、半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。奴隷制度反対者が、奴隷制度のこれ以上の蔓延を阻止し、一般人心をして、それが究極には絶滅される運命にあると信じて、安堵せしむるか、あるいは奴隷制度擁護者が、奴隷制度を押し拡めてついには新旧各州に、また南北両地方において、奴隷制度を合法的とするにいたるか、そのいずれかでありましょう。<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』1957 岩波文庫 p.43>
大統領就任
1860年11月の大統領選挙で共和党候補として当選、翌年3月、第16代アメリカ大統領に就任した。共和党としては最初の大統領であった。当時、アメリカ合衆国はアメリカ独立革命ともいわれる建国以来80年に近づこうとしていたが、40年代以来の急速な西部開拓によって国土が膨張した一方、工業化が進んだ北部と、黒人奴隷労働に依存する大農園を基盤とした南部との違いが明確となり、それに建国以来の連邦主義と反連邦主義(州権主義)の対立、保護貿易か自由貿易かという経済政策上の対立などが加わって南北の対立が鮮明となっていた。リンカンは北部を基盤とした共和党に属し、連邦主義、奴隷制度拡大に反対という政治的立場にたち、南部を基盤とし州権主義、奴隷制度維持を主張する民主党と対立したが、彼自身は南部の出身で中西部で育ち、極端な奴隷解放論者でもなく、分離主義者でもない中間的立場であったこと、民主党が奴隷制拡大を強硬に主張する南部民主党と奴隷制が維持できれば共和党と妥協してもよいと考える北部民主党に内部分裂していたことが大統領に当選できた理由であった。 → 共和党の項を参照1861年3月4日、リンカンは大統領就任演説をおこない、そこで南部に対し黒人奴隷制廃止を迫る干渉はしないこと、自分の使命は合衆国を分裂の危機から守ることであることを訴え、最後に次のような言葉で結んだ。
(引用)不満を抱く同胞諸君よ、内乱の重大危局(を避ける鍵)は、私の手にではなく、諸君の掌中に握られております。政府は諸君を攻撃しないでしょう。諸君自らが攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ないでしょう。諸君は、わが国の憲政(ガヴァメント)を破壊しようということを天に誓ったはずもなく、私は「憲法を維持し保護し擁護すべきこと」(憲法第2条1節8項)をきわめて厳重に、宣誓しようとするものであります。(中略)
われわれは敵同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。たとい感情の緊迫はあったとしても、それでもわれわれの愛の絆を断絶させてはなりません。神秘なる思い出の絃(いと)が、わが国のあらゆる戦場と愛国者の墓とを、この広大な国土に住むすべての人の心と家庭とに結びつけているのでありまして、(この絃が)必ずや時いたって、われわれの本性に潜む、よりよい天使の手により、ふたたび触れ(奏で)られる時、その時には連邦(ユニオン)の合唱(コーラス)が重ねて今後においても高鳴ることでありましょう。<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』1957 岩波文庫 p.107>
南北戦争の開戦
1860年11月、奴隷制拡大に反対するリンカンが大統領に当選したことで、危機感を強めた南部のプランター(農園主)に押された南部諸州が合衆国から離脱し、翌年2月アメリカ連合国を結成した。ついに1861年7月、南部にあるサムター要塞での衝突から南北戦争に突入した。リンカンは7月4日、特別議会で演説(戦争教書)し、サムター要塞の衝突の経緯、戦争態勢の発動を余儀なくされた事情を説明し、戦争行為に伴う人身保護令の停止、募兵と軍事費など議会の協賛を要請、戦争の目的を合衆国の不可分の理念に基づいて不当な分離主義、州権主義を打破することに置いた。その中で、リンカンはこの戦争の意義として次のような理念を上げている。(引用)今次の争(あらそい)は本質的には「人民の戦い」(ピープルズ・コンテスト)である。連合(ユニオン)の側からいえば、人間の状態を向上せしめることを主要の目的とする。政治の形態形態と実態とを、世界に維持しようとするための闘争(ストラグル)である。すなわちかかる政治の主なる目的は、不自然な重荷を万人の肩からとり去り、万人のために立派な職業の道をきり開き、万人のために人生の馳場における自由な発足を、また公平な機会を備えるにある――そのような政治の維持のための闘いである。やむをえない事情で一時はいくぶんか本道をそれることもあろうが、これこそ政府の主な目的であり、この政府の存続のためにわれわれは戦って(コンテンド)いるのである。<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』1957 岩波文庫 p.126>このリンカンの掲げた戦争目的から、南北戦争はアメリカで Civil War と言われているのであろう。約4年間にわたった南北戦争の戦死者は約62万人と言われ、第二次世界大戦でのアメリカ兵の戦死者32万の倍近い数に上っている。なんという「やむをえない事情」であったか。なんという多数の犠牲で「政府」がまもられたことか。そして、なんという多数の戦死によって、「世界史上の最後の大規模な奴隷制度」が廃止となったことか。意味をかみしめておこう。
奴隷解放宣言の発布
リンカンは連邦政府による合衆国の統一を重視し、南部の分離独立を認めず、開戦に踏み切ったが、戦闘が始まってからも黒人奴隷解放には明確な態度を示さなかった。北部の急進的な奴隷解放論者はあいまいなリンカンの態度を非難している。リンカンの思惑の一つは、奴隷廃止を明確にしてしまうと、奴隷州でありながら中立を守っている南部4州(デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ)を敵に回してしまうことを恐れたことがあげられる。特にメリーランドは首都ワシントンの北にあるので、その帰趨は重大な意味を持っていた。62年3月には、黒人奴隷制の漸進的廃止(1900年までに、有償で廃止)を打ち出し、南部諸州を引き留めようともしたが、それは中立4州の反対で実現しなかった。南北戦争は、統一か分離かをめぐる戦争として始まったが、当初は南軍が強く、北軍は苦戦を重ね、リンカンは強硬な奴隷制即時廃止論者と中立諸州の奴隷制継続の要求にはさまれて、窮地に追いやられた。1862年のホームステッド法で西部農民の支持を取り付けることに成功したが、イギリスとフランスが非公然ながら南部を支持、支援する情勢であったので、不利な状況が続いていた。
リンカンは戦争目的を単なる内戦ではない、大義名分を掲げる必要に迫られた。開戦から1年あまりたってから奴隷解放に踏み切ることを決断、1862年9月に「奴隷解放宣言の予備宣言」を公布し、翌1863年1月1日を以て、交戦中の南部諸州の黒人奴隷を無償で、即時に解放すること明らかにした。
イギリスはすでに1833年に奴隷制度廃止を実現しており、大規模な奴隷制度を維持していた国は、先進諸国にはアメリカを除いてすでに無くなっていた。リンカンが奴隷解放を戦争目的に掲げたことによって、イギリスが南部支持から北部支持に転換するなど、ヨーロッパ諸国は明確に北部支持に踏み切ることができた。また、国際的な支援によって北軍の士気も上がり、リンカンの戦略は成功した。1863年7月、ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、形勢は逆転、リンカンは1863年11月19日にはその勝利の地で有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という民主主義の原則を簡明に表現した名演説をおこなった。
奴隷解放宣言と南北戦争の勝利により、リンカンは「偉大な解放者」the Grate Emancipator となり、アメリカ合衆国憲法修正第13条も各州で批准され、全アメリカで300万人と言われる黒人奴隷の解放は実現していった。しかしアメリカの黒人奴隷解放は順調に進んだわけではなく、黒人差別が現実の問題として深刻となってゆき、現代においてもなお、真の解決には至っていない。
リンカンの暗殺
1865年4月9日に、リー将軍が降伏して南北戦争は終結した。そのわずか5日後の1865年4月14日、復活祭の前の金曜日(グッドフライデー)に、リンカン夫妻はワシントンのフォード劇場に「わがアメリカのいとこ」という喜劇を見に行った。ボックス席で観劇中に、密かに入り込んだ男が至近距離からピストルを発射、リンカンの頭部に命中した。犯人はウィルクス=ブースという俳優で、狂信的な南部の支持者だった。リンカンを殺し、ボックスを乗り越えて舞台に飛び降り「暴君の運命はこうだ!」と叫びながら、外に飛び出し、馬で逃亡した。4月25日、ヴァージニアで発見されたが抵抗したため撃たれ、翌日死亡した。
この暗殺は単独犯ではなく、共謀した仲間は国務長官シューアードが自宅で寝ていたところを襲撃し重傷を負わせた。その仲間も逮捕され、裁判にかけられて死刑または投獄された。
在任中の大統領が殺害されたのはこれが初めてだったので、アメリカ全土が震撼した。リンカンが当選したのは1860年であったが、その百年後の1960年に当選したケネディ大統領も、同じように衆人環視の中で狙撃されて死んだ。その他、両者の暗殺にはいくつかの共通点があり、アメリカの歴史の一つの謎とされている。 → ケネディ暗殺との類似
参考 リンカンの評価
リンカンは奴隷解放を実現した「偉大な解放者」として歴史に其の名を刻み、アメリカ合衆国の歴代大統領の中でも傑出した評価がなされている。アメリカ国家にとって最大の功績は、南北戦争という国家分裂の危機に当たり、北部主導の工業化と奴隷解放、連邦主義の維持を軸とした統一を実現したことであろう。その後、19世紀後半のアメリカは大国として世界に君臨していく。そして「自由と民主主義」という理念と経済的覇権主義は20世紀の世界をリードし、あるいは混乱と悲惨をもたらす。またリンカンの死を以て共和党は大きく変身していくことも忘れてはならない。リンカンをむやみに「偉人」として奉ってしまったり、昔も今もあるような独裁者として貶すだけでなく、改めてその演説集などを読んでみると、彼が取り組んだ課題と苦悩が見えてきて、現代の平和や民主主義の課題につながっていることがよくわかる。参考 リンカンは何党?
(引用)もしも、アメリカ史を特に勉強したことのない人が、エイブラハム=リンカンは、いったい、どの党に属していたかと思うか、・・を言えと尋ねられたならば、その人は、リンカン以後の合衆国の二人の偉大な大統領であったフランクリン=ローズヴェルトやウッドロー=ウィルソンと同じ党(引用者注 民主党)にリンカンをおくことは、おそらく確かである。しかし、その人は正しくないであろう。フーヴァーやハーディングの党、つまり共和党がエイブラハム=リンカンの党なのだ。<ホイーア/小原敬士・本田創造訳『リンカン―その生涯と思想』1957 岩波新書>これは今でも手頃なリンカンの概説書として読まれているホイーアの評伝『リンカン』(岩波新書)の最後の方の一節。大戦後の共和党のイメージを持っている私たちにとっても、リンカンが共和党の大統領だったことがなかなか理解できない。ましてやトランプが共和党の次期大統領候補となった現在においておや。
意地の悪い大学入試の作問者は、そこをついて、リンカンは何党の大統領であったかをよく設問する。ひっかからずに共和党と答え、そこから現在の共和党が変質していることを理解しておこう。