逃亡奴隷法
アメリカ合衆国で、1793年と1850年に連邦法として制定された、逃亡した黒人奴隷は逮捕され奴隷主に引き渡されることを定めた法律。北部自由州にも適用されたので、1850年法は特に奴隷制反対が北部で強まるきっかけとなり、1852年に『アンクル=トムの小屋』が発表された。
1788年に発効したアメリカ合衆国憲法では、黒人奴隷制(アメリカ)については明文はなかったものの、第4条第2節で「ある州で法律の下で労働の義務を負う者が、他の州に逃亡したとき、逃亡先の州の法律に従って解放されることはない。逃亡先の州はそのものに労働を課す権利を持つ者の請求に応じて、逃亡者を引き渡されねばならない」と規定していた。これが「逃亡奴隷条項」と言われている条項である.
なお、この条文は南北戦争後の1865年1に成立した憲法修正第13条によって無効となった。<憲法条文は、飛田茂雄『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』1998 中公新書 p.142を参考に要約した。>
1793年の逃亡奴隷法 この合衆国憲法の逃亡奴隷条項に基づき、1793年に逃亡奴隷法が連邦議会で成立し、連邦判事または州判事は逃亡奴隷とされる者に対してもとの所有者から引き渡し要請があった場合、その地域の住民による陪審裁判なしで処遇を決定できる権限が与えられた。しかし北部諸州では陪審裁判無しで拘束することに対する市民の抵抗が強く、州法で陪審裁判を義務づけるところもあり、陪審裁判が行われると逃亡奴隷とは認定されず釈放された。また逃亡奴隷捕獲人の行為は「誘拐」ととして非難された。このため1793年の逃亡奴隷法は連邦法であったが北部では実効力が弱かった。
参考 逃亡奴隷法にはこの1793年のものと、1850年のものがあるが、一般的には後者の1850年のものを言うことが多い。また高校生用世界史用語事典では、地下鉄道運動、ハリエット=タブマンの項とともに取り上げられていないが、黒人奴隷制の理解には必要な事項であり、これから取り上げる教科書も出てくるかも知れないと考え、掲載することにした。
1846年に始まったアメリカ=メキシコ戦争の結果、1848年にカリフォルニアがアメリカ領になると、広大な土地を自由州とするか奴隷州とするかで大論争となった。大統領テイラーが病気で急死し、副大統領から昇格したフィルモア大統領のもとで、1850年9月にカリフォルニアを自由州とする代わりに、逃亡奴隷取り締まりを強化する黒人奴隷制を制定することで妥協が成立した。この妥協を「1850年の妥協」と言っている。
1850年の逃亡奴隷法は、逃亡奴隷の捕獲・所有者への引き渡しに関して連邦保安官の絶対的権限を認めたもので、地域住民の陪審裁判は必要とせず、奴隷の人相書きを最終的な証拠として認めていた。そして奴隷を所有者に送り返せば10ドル、所有者の意志に反する判断を下した場合は5ドルの手数料を連邦保安官に支払うことを規定した。また逃亡を助けた者も犯罪者として裁くことが認められた。これは、逃亡奴隷の捕獲・引き渡しに関しては北部諸州の「州権」が否定され、連邦政府が逃亡奴隷を取り締まりに乗り出すことを意味していた。北部諸州は強く反対したが、南部出身議員が奴隷主であるプランターの働きかけを受け、必死に工作した結果、連邦議会を通過し成立した。<上杉氏の著作『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 p.105-108>
この逃亡奴隷制の制定によって逃亡奴隷に対する取り締まりは盛んに行われるようになり、また逃亡支援者も罪に問われることから、手を引かざるを得なくなった。しかし、奴隷の逃亡は止まず、各地で衝突が起こり、また逃亡奴隷はアメリカを離れてカナダを目指すようになった。1849年に自ら逃亡し、地下鉄道運動に加わっていたハリエット=タブマンも逃亡奴隷法を恐れずに活動を続け、さらにカナダに逃亡するルートで活躍を続けた。
黒人奴隷制に反対する北部と、その維持を堅持しようとする南部の対立は、その他の要因とも重なって次第にアメリカの南北対立は深刻となっていった。1860年11月の大統領選挙で奴隷制拡大反対の共和党のリンカンが北部を基盤に当選したことで南部の11州が合衆国を利だし、ついに1861年に 南北戦争の勃発となる。
1793年の逃亡奴隷法 この合衆国憲法の逃亡奴隷条項に基づき、1793年に逃亡奴隷法が連邦議会で成立し、連邦判事または州判事は逃亡奴隷とされる者に対してもとの所有者から引き渡し要請があった場合、その地域の住民による陪審裁判なしで処遇を決定できる権限が与えられた。しかし北部諸州では陪審裁判無しで拘束することに対する市民の抵抗が強く、州法で陪審裁判を義務づけるところもあり、陪審裁判が行われると逃亡奴隷とは認定されず釈放された。また逃亡奴隷捕獲人の行為は「誘拐」ととして非難された。このため1793年の逃亡奴隷法は連邦法であったが北部では実効力が弱かった。
参考 逃亡奴隷法にはこの1793年のものと、1850年のものがあるが、一般的には後者の1850年のものを言うことが多い。また高校生用世界史用語事典では、地下鉄道運動、ハリエット=タブマンの項とともに取り上げられていないが、黒人奴隷制の理解には必要な事項であり、これから取り上げる教科書も出てくるかも知れないと考え、掲載することにした。
1850年の逃亡奴隷法
19世紀に入ると奴隷制廃止論が強まるとともに逃亡奴隷が増加し、1830年頃からは逃亡を助ける秘密組織である地下鉄道も活動するようになった。そのころ南部の綿花プランテーションの発展は頂点に達し、1950年代にはアメリカ南部産の綿花が世界市場の4分の3を占めるほどになっていた。そのため奴隷労働力はプランターにとってますます重要になっていたため、奴隷の逃亡防止、逃亡奴隷の引き渡しの要求が強まった。1846年に始まったアメリカ=メキシコ戦争の結果、1848年にカリフォルニアがアメリカ領になると、広大な土地を自由州とするか奴隷州とするかで大論争となった。大統領テイラーが病気で急死し、副大統領から昇格したフィルモア大統領のもとで、1850年9月にカリフォルニアを自由州とする代わりに、逃亡奴隷取り締まりを強化する黒人奴隷制を制定することで妥協が成立した。この妥協を「1850年の妥協」と言っている。
1850年の逃亡奴隷法は、逃亡奴隷の捕獲・所有者への引き渡しに関して連邦保安官の絶対的権限を認めたもので、地域住民の陪審裁判は必要とせず、奴隷の人相書きを最終的な証拠として認めていた。そして奴隷を所有者に送り返せば10ドル、所有者の意志に反する判断を下した場合は5ドルの手数料を連邦保安官に支払うことを規定した。また逃亡を助けた者も犯罪者として裁くことが認められた。これは、逃亡奴隷の捕獲・引き渡しに関しては北部諸州の「州権」が否定され、連邦政府が逃亡奴隷を取り締まりに乗り出すことを意味していた。北部諸州は強く反対したが、南部出身議員が奴隷主であるプランターの働きかけを受け、必死に工作した結果、連邦議会を通過し成立した。<上杉氏の著作『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 p.105-108>
この逃亡奴隷制の制定によって逃亡奴隷に対する取り締まりは盛んに行われるようになり、また逃亡支援者も罪に問われることから、手を引かざるを得なくなった。しかし、奴隷の逃亡は止まず、各地で衝突が起こり、また逃亡奴隷はアメリカを離れてカナダを目指すようになった。1849年に自ら逃亡し、地下鉄道運動に加わっていたハリエット=タブマンも逃亡奴隷法を恐れずに活動を続け、さらにカナダに逃亡するルートで活躍を続けた。
ストウ、『アンクル=トムの小屋』を著す
逃亡奴隷法の制定を機に逃亡奴隷が連邦保安官や奴隷狩りによって連行される事態が北部各地でおこり、そのありさまを見た北部の白人の中に、それまで遠く離れた南部の問題としてしか捉えていなかった奴隷制問題を初めて真剣に考える機会を与えた。そのような中で、1852年3月にストウが『アンクル=トムの小屋』を発表して奴隷制の非人道性を告発すると、広く反響が起こり、北部の奴隷制反対の声が高まるきっかけとなった。黒人奴隷制に反対する北部と、その維持を堅持しようとする南部の対立は、その他の要因とも重なって次第にアメリカの南北対立は深刻となっていった。1860年11月の大統領選挙で奴隷制拡大反対の共和党のリンカンが北部を基盤に当選したことで南部の11州が合衆国を利だし、ついに1861年に 南北戦争の勃発となる。