ハリエット=タブマン
アメリカの黒人奴隷で女性。1849年に南部のプランテーションから逃亡し、その後も何度も南部に潜伏して奴隷の逃亡を助ける地下鉄道運動に加わり、多くの奴隷を北部やカナダに導いた。南北戦争にも従軍して活躍、戦後は女性の参政権運動にも加わった。
・黒人奴隷制の続く19世紀の前半、南部の黒人奴隷は人間扱いされず、家畜同様に売り買いされ、苛酷な労働に苦しんでいた。彼らの抵抗の一つである逃亡を支援する運動である地下鉄道運動が北部のクェーカー教徒などの白人の中からおこり、多くの逃亡奴隷が自由を得た。奴隷として自ら逃亡し、地下鉄道に加わって多くの逃亡奴隷を助けた一人がハリエット=タブマンである。
逃亡奴隷の増加に手を焼いた白人プランテーション経営主が連邦政府に働きかけ、1850年に逃亡奴隷法が制定されると、北部の逃亡奴隷も逮捕されて強制的に南部に戻されることになったため、さらに自由を求めて北のカナダへの脱走ルートを切り開いた。1861年に南北戦争が始まると、タブマンは北軍に協力、南部に潜伏して諜報活動に当たった。戦後はニューヨーク州オーバンに施設を造り、身寄りの無い黒人の高齢者などを引き取った。19世紀末、白人女性の中で女性参政権獲得を目指す運動が起きると、タブマンはそれに参加し、黒人女性の窮状を訴えた。その後、長くその存在は忘れられていたが、第二次世界大戦後の黒人差別に対する抗議活動が強まり、公民権運動によって一定の黒人の人権回復が図られる中で、タブマンは黒人奴隷の解放、黒人女性の権利獲得の歴史の中の先駆者として評価されるようになり、学校教育でも取り上げられて広く知られるようになった。<以下、上杉氏の著作『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 に依ってその生涯をたどってみよう。>
奴隷主メアリーはブローダス家に嫁ぎ、メアリーの夫は間もなく死去し、メアリーは同じようなプランターのトンプソンと再婚した。ところがメアリー自身も26歳で死んでしまい、その財産である奴隷使用権はメアリーの連れ子のエドワード・ブローダスに相続されたが、子どもがまだ小さかったため財産管理権は継父のトンプソンが持つことになった。さてブローダス家の奴隷リッツは、トンプソン家の奴隷として材木伐採をしていたベン・ロスと結婚し、5人の子供を生んだ。その5人目の子がハリエット(始めの名はアラミンタ、愛称ミンティ)だった。ハリエットはこうして奴隷として生まれたがその生年ははっきりしない。ところが、この奴隷一家の所有権はブローダス家とトンプソン家の間で裁判沙汰になったため、裁判資料が残されていることが発見され、最近の研究ではその生年は1822年であったとする説が有力になった。<p.43>
6歳になったハリエットは、クック家に「貸し出され」機織りの仕事を習わされたが、彼女はそれを嫌がり、たびたび抜け出した。しつけをすることを諦めたクック家はハリエットをブローダス家に戻した。次には子守と家事をさせる約束でスーザンという白人女性に貸し出されたが、そこでも一日中働かされ、逃げだしてはつかまり、激しく鞭打たれた。ブローダス家に戻され、農園で農具を使い耕作する肉体労働に廻されると、そのほうが性に合うのか、男勝りの仕事をこなすようになった。1833年からはスチュアート家の森林伐採に貸し出され、一緒に働く父のベンから伐採の仕事を覚えさせられながら、森林の中を暗い夜道でも歩けるようになった。
1835年には隣のバーネット家の亜麻畑で刈り取りする仕事に貸し出された。そのとき一人の奴隷が脱走しようとした事件に巻き込まれ、奴隷監督官が投げた鉄製の分銅がハリエットの頭に当たり、昏倒して3日間も意識不明となった。この大けがの後遺症で、ハリエットはそのごもたびたび突然睡眠症(ナルコレプシー)の発作に悩まされることになる。意識を無くしたとき、神の声が聞こえるようになり、それがやがて彼女の「導きの声」になる。<p.62>
しかしリッツとその子たちの所有権を主張するエドワードは、ハリエットを邪魔に感じたのか、あるいは結婚したのに子供を生まないので価値がないと考えたのか、彼女を売りとばそうとした。ハリエットもそれを感じ取り、秘かにエドワードがその考えを改めるよう神に祈るうちにエドワードは死に、奴隷所有権は妻のエリザに移った。
ハリエットは事前にクェーカー教徒から安全な場所への道順を聞いていた。脱走したのは土曜日の夜で月夜だったとハリエットは言っている。ハリエット達が靴を履いていたかどうかはわからない。杖を頼りに夜明けまで歩き、日中は森のなかの大木の穴に隠れて徘徊する奴隷狩りの目から逃れた。森をよく知っていたハリエットは穴の中にはコウモリが住んでいて蚊を食べてくれるので、蚊に悩まされないことを知っていた。夜、移動するには文字の読めないハリエットにとっては教えられた安全な場所をしっかり記憶する記憶力と、北を示す北極星の光のみが頼りだった。
黒人奴隷制に反対する運動のなかには戦闘的な運動を主張するグループもあった。その一人、後に奴隷制打破を掲げてジョン=ブラウンの反乱(1859年)を起こすジョン・ブラウンも熱心にタブマンを誘った。タブマンはブラウンの熱意には尊敬の念を持ったが、武装放棄は現実的手はないと考え、参加しなかった。
その後も奴隷制反対運動に参加したタブマンは、ボストンでの奴隷狩りの暴力から逃亡奴隷を奪い返した逃亡奴隷奪還などでも活躍した。そのうち合衆国内の奴隷制をめぐる対立は頂点に達し、南北戦争の勃発となる。
ヴァージニア州モンロー要塞には開戦三ヶ月後には約1000人の黒人奴隷が逃げこみ、その後もさらに急速に増えていった。彼らは南部連合政府支配地域の奴隷主から一斉に逃亡してきた黒人奴隷であり、一種の蜂起だとも言えた。タブマンは彼らを受け入れ、世話をし、連邦軍に貢献してもらうようなヴォランティア活動を続けた。<p.178>
北軍のシャーマン将軍はサウス・カロライナ州のポート・ロイヤルを拠点に、南部の黒人住民を味方にするため、タブマンを派遣した。その仕事は斥候・スパイといったことだったが、プランテーションから逃れてきた黒人女性を訓練して、北軍兵のための洗濯をさせるなど、その後の南部社会への黒人順応を準備しようとするものもあった。しかしその任務はボランティアとされ、軍からの給与が支給されなかったので、後にタブマンには軍人恩給も支払われなかった。タブマンは後に裁判を起こして軍人恩給の支払いを請求している。
この時、南部プランテーションの奴隷主や奴隷監督は、奴隷たちが逃げないように説得し、犬を使って脅迫した。奴隷たちは恐る恐る様子を見ていたが、北軍のモントゴメリー大佐が合図の汽笛を鳴らすと、北軍の船に殺到した。「リンカンの軍艦が自分たちを救いに来た!」「俺たちは長いことお祈りしてあんたたちが来るのを待っていた!神様に祝福を!」の声があちこちから聞こえ、荷物を持ち、農具を抱え、女は子どもを抱えて北軍のボートに乗り込もうと大混乱になった。このあたりの黒人の言葉はタブマンにもわからなかったが、タブマンは機転を利かして大きく響く声で歌を歌い、踊り、手を打ち始めた。それに合わせてみんなが歌い始め、落ち着いていった。こうしてタブマンの北軍ボートは725人の避難民を救出するのに成功した。しかし、戦争の正式な記録にタブマンの名前は記録されなかった。<p.199-203>
女性の服装が意外と戦争に関係があることはセーラー服が水兵服だったことや、カーディガンがクリミア戦争の時のカーディガン将軍に由来することにも共通している。
南北戦争後、アメリカの女性参政権を要求する運動が盛んになっていた。タブマンは黒人解放運動と同時にこの運動にも協力し、各地の講演会に参加して自分の体験を語るようになった。しかし1884年頃から突然睡眠症の症状が頻発するようになり、次第に体力も衰えて車椅子生活となり、1913年3月に91歳で死去した。
ところが同年の11月の大統領選挙で共和党の候補者となったトランプは、不快感をあらわにし、タブマンを使うなら2ドル紙幣(ほとんど使われていない)ていい、と発言した。トランプが大統領となったことでこの計画は頓挫し、予定の2020年にタブマンの肖像を用いた20ドル紙幣は発行されなかった。
2016年まで日本ではタブマンの名はほとんど知られていなかったが、アメリカでは2000年頃から奴隷解放運動の指導者の一人として盛んに顕彰されるようになり、小学校の教科書などに登場したり、テレビドラマ化されたことで一気に知名度が上がり、現在では知らない人はいないと言われている。<上杉忍『ハリエット・タブマン―「モーゼ」と呼ばれた黒人女性』2019 新曜社 p.3-8>
→ ナショナルジオグラフィック 2016/4/26記事
(引用)逃亡奴隷とその協力者は生命の危険を覚悟せねばならなかった。中でも自ら逃亡してのちに家族を救出することから活動を始めた黒人女性ハリエット・タブマンは、強い意思と機転を利かせた作戦で多くの奴隷を救出した。彼女は、19回の奴隷救出作戦を展開し、合計300人以上を救出し、「黒い女モーゼ※」と呼ばれた。全体として、南北戦争前までに7~10万人が北部に脱出したと推定されている。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史―奴隷貿易からオバマ大統領まで』2013 中公新書 p.43>※モーゼ(ヘブライ語でモーセ) 旧約聖書に出てくるモーセは、エジプトで奴隷とされていたヘブライ人(ユダヤ人)を率いて「出エジブト」を成功させ「約束の地」(カナーン)に導き、途中でヤハウェ(神)から十戒を授けられた人物。アメリカの黒人の中ではキリスト教教会の霊歌(Spirituals)として Go Down, Moses 「行け!モーゼ」がよく歌われている。
地下鉄道運動での活躍
ハリエット=タブマン 1822?~1913 アメリカの南部奴隷州のメリーランド州で黒人奴隷の子として生まれ、1849年に家族から引き離されて他のプランテーションに売り払われることを知って、一人で逃亡し、追っ手を逃れてようやくフィラデルフィアに着き、地下鉄道運動を行っていた自由黒人に保護された。その後も残された黒人奴隷の逃亡を助けようとしてたびたびメリーランド州に向かい、そのたびにリーダーとして果敢に振る舞い、自分の兄弟を始め多くの奴隷の逃亡を助けた。逃亡奴隷の増加に手を焼いた白人プランテーション経営主が連邦政府に働きかけ、1850年に逃亡奴隷法が制定されると、北部の逃亡奴隷も逮捕されて強制的に南部に戻されることになったため、さらに自由を求めて北のカナダへの脱走ルートを切り開いた。1861年に南北戦争が始まると、タブマンは北軍に協力、南部に潜伏して諜報活動に当たった。戦後はニューヨーク州オーバンに施設を造り、身寄りの無い黒人の高齢者などを引き取った。19世紀末、白人女性の中で女性参政権獲得を目指す運動が起きると、タブマンはそれに参加し、黒人女性の窮状を訴えた。その後、長くその存在は忘れられていたが、第二次世界大戦後の黒人差別に対する抗議活動が強まり、公民権運動によって一定の黒人の人権回復が図られる中で、タブマンは黒人奴隷の解放、黒人女性の権利獲得の歴史の中の先駆者として評価されるようになり、学校教育でも取り上げられて広く知られるようになった。<以下、上杉氏の著作『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 に依ってその生涯をたどってみよう。>
黒人奴隷として
ハリエット=タブマンの祖母は西アフリカのアシャンティ族出身で、奴隷としておそらくメリーランド州ケンブリッジに陸揚げされ、パティソン家に購入された。パティソン家はメリーランド州イースタンショアでタバコのプランテーションを経営、森林などを所有しニューイングランド地方とも取引する大プランター商人だった。ハリエットの母リッツの父親はおそらく奴隷主のパティソンであった可能性が高い。パティソンは6歳の奴隷リッツとリッツが将来産む子どもの「使用権」を孫娘のメアリーに贈与した。<p.36-39>奴隷主メアリーはブローダス家に嫁ぎ、メアリーの夫は間もなく死去し、メアリーは同じようなプランターのトンプソンと再婚した。ところがメアリー自身も26歳で死んでしまい、その財産である奴隷使用権はメアリーの連れ子のエドワード・ブローダスに相続されたが、子どもがまだ小さかったため財産管理権は継父のトンプソンが持つことになった。さてブローダス家の奴隷リッツは、トンプソン家の奴隷として材木伐採をしていたベン・ロスと結婚し、5人の子供を生んだ。その5人目の子がハリエット(始めの名はアラミンタ、愛称ミンティ)だった。ハリエットはこうして奴隷として生まれたがその生年ははっきりしない。ところが、この奴隷一家の所有権はブローダス家とトンプソン家の間で裁判沙汰になったため、裁判資料が残されていることが発見され、最近の研究ではその生年は1822年であったとする説が有力になった。<p.43>
奴隷の売買と貸し出し
アメリカは1808年に黒人奴隷貿易は禁止されたため、アフリカからの奴隷は密貿易で運ばれるようになっていたが、奴隷密貿易に対する非難が強まったため新たな奴隷供給源を求めることは困難になった。そこで奴隷主は奴隷を結婚させ、その子を奴隷として所有し、余ったら売却して利益を得たり、貸し出して収入をえるようになっていた。そのため奴隷主の赦しがあれば、奴隷も家族を持てたが、その子供たちは奴隷主の財産とされ、いつでも売られていくか、貸し出しされて家族は引き裂かれることになる。ベンとリッツの奴隷一家は比較的落ち着いた家庭生活を送っていたが、ブローダス家の当主エドワードは成人すると、財産の奴隷を活用しようと考えた。6歳になったハリエットは、クック家に「貸し出され」機織りの仕事を習わされたが、彼女はそれを嫌がり、たびたび抜け出した。しつけをすることを諦めたクック家はハリエットをブローダス家に戻した。次には子守と家事をさせる約束でスーザンという白人女性に貸し出されたが、そこでも一日中働かされ、逃げだしてはつかまり、激しく鞭打たれた。ブローダス家に戻され、農園で農具を使い耕作する肉体労働に廻されると、そのほうが性に合うのか、男勝りの仕事をこなすようになった。1833年からはスチュアート家の森林伐採に貸し出され、一緒に働く父のベンから伐採の仕事を覚えさせられながら、森林の中を暗い夜道でも歩けるようになった。
1835年には隣のバーネット家の亜麻畑で刈り取りする仕事に貸し出された。そのとき一人の奴隷が脱走しようとした事件に巻き込まれ、奴隷監督官が投げた鉄製の分銅がハリエットの頭に当たり、昏倒して3日間も意識不明となった。この大けがの後遺症で、ハリエットはそのごもたびたび突然睡眠症(ナルコレプシー)の発作に悩まされることになる。意識を無くしたとき、神の声が聞こえるようになり、それがやがて彼女の「導きの声」になる。<p.62>
売りとばされる危機迫る
奴隷主エドワード・ブローダスは、リッツの子供たちが成長すると、南のヴァージニア州のプランターに売却していった。州外への奴隷売却は違法だったが利益が大きかった。しかしリッツは子供たちが売却されることに抵抗するようになった。ハリエットは1844年、一緒に働いていた自由黒人ジョン・タブマンと結婚し、それを機にハリエット・タブマンを名乗るようになった。ハリエットは結婚するとすぐ、弁護士に費用を払い母の奴隷身分についての証明を調べてもらった。その結果、最初の奴隷主パティソンの遺言状にリッツが45歳になったとき、彼女とその子どもを解放する、と書かれていたことがわかった(奴隷であるハリエットが弁護士を雇えたのか不審であるが、ブローダス家と奴隷所有権で争っているトンプソン家などがタブマンを使って弁護士に調べさせたのかも知れない)。<p.76>しかしリッツとその子たちの所有権を主張するエドワードは、ハリエットを邪魔に感じたのか、あるいは結婚したのに子供を生まないので価値がないと考えたのか、彼女を売りとばそうとした。ハリエットもそれを感じ取り、秘かにエドワードがその考えを改めるよう神に祈るうちにエドワードは死に、奴隷所有権は妻のエリザに移った。
逃亡
1849年9月、ハリエットはエリザが自分たちをすぐに売り払うと感じ取り、夫や兄弟に一緒に逃げることを相談した。夫は逃亡に反対し、兄弟達もためらったが、ハリエットは止める夫を振り切り、説得に応じた兄弟二人とその家族を連れて、ついに脱走した。逃亡の日付ははっきりしないがエリザが地元の新聞に出した逃亡奴隷広告には17日となっている。彼女は27歳になっていたと思われる。彼らには一人あたり100ドルの懸賞がかけられた。兄弟二人は逃亡に疲れ、途中で戻ってしまった。<p.84>ハリエットは事前にクェーカー教徒から安全な場所への道順を聞いていた。脱走したのは土曜日の夜で月夜だったとハリエットは言っている。ハリエット達が靴を履いていたかどうかはわからない。杖を頼りに夜明けまで歩き、日中は森のなかの大木の穴に隠れて徘徊する奴隷狩りの目から逃れた。森をよく知っていたハリエットは穴の中にはコウモリが住んでいて蚊を食べてくれるので、蚊に悩まされないことを知っていた。夜、移動するには文字の読めないハリエットにとっては教えられた安全な場所をしっかり記憶する記憶力と、北を示す北極星の光のみが頼りだった。
フィラデルフィアへ
ハリエットはデラウェア州を抜け、ついに「メイソン・ディクソン線」を越えてペンシルヴェニア州に入った。ペンシルヴェニアは自由州でその州都フィラデルフィアには多くの自由黒人が自由に活動し、いわゆる地下鉄道運動の拠点も築かれていた。ハリエットはフィラデルフィアにひとまず落ち着き、ホテルの洗濯や皿洗いの仕事で金を貯め、また支援者からの寄付を集めながら、故郷のメリーランド州イースタンショアに戻り、家族を連れてこようと考えていた。<p.91,112>逃亡奴隷法
ペンシルヴェニア州にいてもハリエットは逃亡した奴隷であることには変わりは無かった。ところが1850年9月に連邦議会で逃亡奴隷法が成立したため、ハリエットは捕らえられればメリーランドの奴隷主のもとに送還される恐れが出てきた。地下鉄道運動の協力者も罰せられることになるので、彼らにも衝撃が走り、運動への慎重論が強まった。しかし、ハリエットは故郷に残してきた父母や弟、妹たちを連れてきたいという願いを棄てなかった。1851年秋、フィラデルフィアからメリーランド州に戻り、まず夫のジョン・タブマンにあった。ところがジョンはすでに自由黒人の女性と同棲していた。ハリエットは動揺したがすぐに失意から立ち直り、心の中からジョンを消し、奴隷救出に全力を捧げようと決意した。<p.120>カナダへ
1851年秋、故郷イースタンショアに決意を固くしたハリエットが現れると、11人の奴隷が自分たちを自由の地に連れて行ってくれ、と言ってきた。彼女はそれを受けて、はじめて家族ではない奴隷達を指揮して逃亡の旅に出た。このとき、ハリエットは気が変わった奴隷を脅しつけるために、短銃を持っていた。後には一行の中には子供がいるときは、夜泣かないようにするため飲ませるアヘンを持参した。周到な準備と、ハリエットの勇気ある判断で夜中の行進をやり抜き、フィラデルフィアに入ったが、逃亡奴隷法が施行されていたので、ここも安住の地ではなくなっていた。アメリカ国内に止まっていることはできないので、途中には鉄道も使いながら、ニューヨーク→オーバニー→ロチェスターを経て、ナイヤガラ渓谷にかかるサスペンション橋を渡り、カナダのオンタリオ州セント・キャサリンズに到達した。そこで一行は家を借り、初めて定住した。この町は、その後も地下鉄道運動の終着駅となった。<p.121-123>「黒いモーゼ」
奴隷の逃亡は南部プランターの財産が減ることになるので、その取り締まりはますます厳しくなり、逃亡奴隷法の施行によって、北部でも盛んに奴隷狩りが行われるようになった。地下鉄道運動もますます困難になったため、幹部のデラウェア州ウィルミントンのトマス・ギャレットやフィラデルフィアのウィリアム・スティルなどは慎重論を採るようになったが、ハリエットはおかまいなく活動を続けた。1954年に故郷に残っていた兄弟のうち3人を含めた9人を救出、57年までのあいだに6回の救出作戦を敢行した。奴隷主エリザは怒り狂い、ハリエットを悪魔と罵り、そのつど奴隷狩りを行ったが一人も連れ戻すことが出来なかった。この神がかり的な成功によって、ハリエットは1854年頃から「黒いモーゼ」と言われるようになった。<p.128-142>両親を逃亡させる
1857年にはハリエットはメリーランド州に潜伏して秘かに馬車を用意し、歩くことが困難な両親を説得して馬車の中に隠し、不安がる両親を有無を言わせずのせて、夜中にひた走り130キロ先のウィルミントンまで送り届けた。そこからイースタンショアに戻り残る一人妹レイチェルの説得に当たった。しかし子ども二人を奴隷主エリザのもとに残して別な家に貸し出されていたレイチェルは、子どもと別れるのを嫌がり、説得できず別れた。その後もレイチェル救出を試みたが、1860年11月を最後にあきらめた。その時すでにレイチェルは死んでいた。<p.143-147>地下鉄道の車掌として
(引用)タブマンの人生全体にとって、この「地下鉄道」活動は、もっとも華々しい活動だったし、彼女もそのことに強い誇りを抱いていた。1896年11月18日にロチェスターでニューヨーク州女性参政権協会集会が開かれ、ここで演説した際に、タブマンは女性参政権ではなく、地下鉄道運動について述べ、「私は地下鉄道の車掌として8年間活動してきましたが、ほかの人たちとは違って一度として脱線させたことはありませんし、一人の乗客も失ったことはありませんと、自信をもって言うことができます」と誇らしく語った。<上杉忍『ハリエット・タブマン―「モーゼ」と呼ばれた黒人女性』2019 新曜社 p.149>
奴隷制廃止運動のなかへ
その後、ハリエットはニューヨーク州オーバンの女性参政権運動の指導者の一人ルクレシア・モットの妹マーサ・コフィン・ライトの支援を受けるようになった。さらにニューヨーク州選出の上院議員で奴隷制廃止主義者ウィリアム・H・スワードから土地と家屋を買い取り、寒冷なカナダのセント・キャサリンズから両親を呼び寄せた。1852年にストゥ著の『アンクル=トムの小屋』が発表され、奴隷制廃止運動が盛んになっており、1855年10月にはフィラデルフィアで全国有色人大会が開催され、タブマンは初めて参加した。逃亡奴隷の先輩とも言えるフレデリック=ダグラスやタブマンの協力者イースタンショアの黒人牧師サミュエル・グリーンも参加した。黒人奴隷制に反対する運動のなかには戦闘的な運動を主張するグループもあった。その一人、後に奴隷制打破を掲げてジョン=ブラウンの反乱(1859年)を起こすジョン・ブラウンも熱心にタブマンを誘った。タブマンはブラウンの熱意には尊敬の念を持ったが、武装放棄は現実的手はないと考え、参加しなかった。
その後も奴隷制反対運動に参加したタブマンは、ボストンでの奴隷狩りの暴力から逃亡奴隷を奪い返した逃亡奴隷奪還などでも活躍した。そのうち合衆国内の奴隷制をめぐる対立は頂点に達し、南北戦争の勃発となる。
南北戦争への参加
南北戦争(1861~65)が始まると、タブマンがいたメリーランド州は奴隷州ではあっても連邦から離脱しなかったが、奴隷制維持派も多く、南軍に投じるものあって、北軍部隊が南軍のゲリラ攻撃に苦しむなど状況は緊迫した。そのためタブマンの逃亡奴隷支援活動は困難になった。そんな中、タブマンは南部の戦場にでかけ、現地の黒人と北軍の橋渡し役を勤めることで黒人奴隷を連邦軍に逃亡させる作戦や、黒人志願兵の支援や看護に取り組んだ。その活躍は時には「タブマン将軍」とも言われるほど神秘的な存在として知られるようになった。<p.177>ヴァージニア州モンロー要塞には開戦三ヶ月後には約1000人の黒人奴隷が逃げこみ、その後もさらに急速に増えていった。彼らは南部連合政府支配地域の奴隷主から一斉に逃亡してきた黒人奴隷であり、一種の蜂起だとも言えた。タブマンは彼らを受け入れ、世話をし、連邦軍に貢献してもらうようなヴォランティア活動を続けた。<p.178>
北軍のシャーマン将軍はサウス・カロライナ州のポート・ロイヤルを拠点に、南部の黒人住民を味方にするため、タブマンを派遣した。その仕事は斥候・スパイといったことだったが、プランテーションから逃れてきた黒人女性を訓練して、北軍兵のための洗濯をさせるなど、その後の南部社会への黒人順応を準備しようとするものもあった。しかしその任務はボランティアとされ、軍からの給与が支給されなかったので、後にタブマンには軍人恩給も支払われなかった。タブマンは後に裁判を起こして軍人恩給の支払いを請求している。
ガンビー川の戦い
1863年1月1日、リンカン大統領が奴隷解放宣言を出したことで、北軍の戦争の大義は奴隷解放にあることが明確にされた。南軍支配地域の中のもっとも肥沃な稲作プランテーション地帯であったサウス・カロライナ州ガンビー川両岸の南軍掃討作戦が開始されると、タブマンはそのための情報収集を命じられた。同年6月のガンビー川の作戦で、タブマンは軍事作戦を準備し、戦争に参加した最初の女性となった。タブマンは士官とともにアダムズ号に乗船して魚雷の位置を確認しながら進み、タブマンの合図で兵士が水田プランテーションに上陸してコメと綿の倉庫を次々と占領、南軍を敗退させた。<p.195-197>この時、南部プランテーションの奴隷主や奴隷監督は、奴隷たちが逃げないように説得し、犬を使って脅迫した。奴隷たちは恐る恐る様子を見ていたが、北軍のモントゴメリー大佐が合図の汽笛を鳴らすと、北軍の船に殺到した。「リンカンの軍艦が自分たちを救いに来た!」「俺たちは長いことお祈りしてあんたたちが来るのを待っていた!神様に祝福を!」の声があちこちから聞こえ、荷物を持ち、農具を抱え、女は子どもを抱えて北軍のボートに乗り込もうと大混乱になった。このあたりの黒人の言葉はタブマンにもわからなかったが、タブマンは機転を利かして大きく響く声で歌を歌い、踊り、手を打ち始めた。それに合わせてみんなが歌い始め、落ち着いていった。こうしてタブマンの北軍ボートは725人の避難民を救出するのに成功した。しかし、戦争の正式な記録にタブマンの名前は記録されなかった。<p.199-203>
Episode 南北戦争と「ブルマー」の普及
奴隷解放運動に活躍し、自らも逃亡奴隷だったハリエット・タブマンは南北戦争の最中の1863年、サウス・カロライナ州ガンビー川の戦闘で、北軍に参加し大活躍した。タブマンは黒人奴隷の救出作戦の際に、二頭の豚を抱えた女性奴隷を艦船に迎え入れようとして、スカートの裾を踏んでつまづいてしまった。その経験から、今後、戦闘中はスカートをはかないことにした。6月30日に「作戦の時に着る厚地のブルマーを送って下さい」と手紙に書いている。但し実際にタブマンがブルマーをはいたかどうかは定かではない。ブルマーは1840年代末に女性解放運動家アメリア・ジェンクス・ブルマーが紹介した、ゆったりしたくるぶしまでの長い女性用のズボンのことで、女性が活発に動けることで注目されたが、保守的な男性からは批判された。南北戦争中の戦地で看護に当たる女性の多くが着用するようになり、タブマンもそれを知っていたらしい。<上杉忍『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 p.203,205>女性の服装が意外と戦争に関係があることはセーラー服が水兵服だったことや、カーディガンがクリミア戦争の時のカーディガン将軍に由来することにも共通している。
タブマン・ホームの運営
タブマンは戦後、ニューヨーク州オーバンにタブマン・ホームと言われる施設を作り、病気や貧困で苦しむ黒人を支援した。黒人だけでなく白人の高齢者なども保護した。その運営費には軍人恩給を充てようとしたが支給されなかったため、寄付や自伝の出版でまかなった。のちに戦争中の看護活動に対する恩給が支給され、その活動は軌道に乗るようになった。1870年代になると南部での黒人分離政策が公認され、北部にも黒人差別がひろがるなど、タブマンの求めた社会にはまだ遠い状況であった。南北戦争後、アメリカの女性参政権を要求する運動が盛んになっていた。タブマンは黒人解放運動と同時にこの運動にも協力し、各地の講演会に参加して自分の体験を語るようになった。しかし1884年頃から突然睡眠症の症状が頻発するようになり、次第に体力も衰えて車椅子生活となり、1913年3月に91歳で死去した。
NewS アメリカ史上初の黒人女性が紙幣の顔に?
2016年4月20日、アメリカ合衆国財務長官ジェイコブ・J・ルーは、2020年の女性参政権獲得100周年を記念して、20ドル紙幣の表面に黒人女性ハリエット=タブマンの肖像を掲載すると発表した。現在の表面の肖像の第7代大統領アンドリュー=ジャクソンは裏面に廻すという。これが実現すれば、アメリカの紙幣に女性、しかも黒人が登場することは史上初となる。ところが同年の11月の大統領選挙で共和党の候補者となったトランプは、不快感をあらわにし、タブマンを使うなら2ドル紙幣(ほとんど使われていない)ていい、と発言した。トランプが大統領となったことでこの計画は頓挫し、予定の2020年にタブマンの肖像を用いた20ドル紙幣は発行されなかった。
2016年まで日本ではタブマンの名はほとんど知られていなかったが、アメリカでは2000年頃から奴隷解放運動の指導者の一人として盛んに顕彰されるようになり、小学校の教科書などに登場したり、テレビドラマ化されたことで一気に知名度が上がり、現在では知らない人はいないと言われている。<上杉忍『ハリエット・タブマン―「モーゼ」と呼ばれた黒人女性』2019 新曜社 p.3-8>
→ ナショナルジオグラフィック 2016/4/26記事