スタール
フランス革命期に活躍した女流作家。ネッケルの娘。フランス革命期にサロンを主催して革命を支持したが、ジャコバン独裁には反対し、スイスに逃れる。次のナポレオン独裁をも批判したので国外追放追放となり、ドイツ・ロシア・イタリア・イギリスなどを旅行、その間ドイツでロマン主義文学に接し、その強い影響を受ける。ナポレオン退位後にパリに戻り、多くの文学作品も執筆し、19世紀フランスのロマン主義文学の先駆者となった。
ネッケルの娘としてサロン活動
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ピエール=ルイ=ブーヴィエール筆 1817
父親のネッケルはスイス人銀行家で、ジュネーブを中心に活躍し巨額の富を築いていた。財政難に陥ったルイ16世のフランス王室はネッケルから借金すると共に財務大臣として招いた。ベッケルはフランス人でも無く、プロテスタントであったがフランスの財政改革に意欲を燃やし、パリに移り住んだ。そのネッケルの娘として、1766年にパリで生まれたのがジェルメーヌだった。幼少の頃から母のサロンでディドロやダランベールらと接して啓蒙思想の影響を受けて、合理的な判断と果敢な行動力でブルボン朝廷で重きをなした父に対する強い共感をもって育った。駐仏スウェーデン大使のスタール=ホルシュタイン男爵と結婚して「スタール夫人」と呼ばれ、外交官夫人として彼女自身もフランス政界で活動するようになり、タレーランなど共知り合った。まもなく夫とは別居し、華麗な男性遍歴を重ねながら、政治論・文学論を戦わす文筆活動を始めた。1789年7月、23歳の時、父が財務長官の地位を罷免されたのがきっかけとなってフランス革命が勃発するという激動に遭遇することとなった。
フランス革命でのスタール
革命が勃発すると、スタールは開明的な貴族たちのサロンの中心人物の一人として、啓蒙思想の影響もあって、自由で平等な社会の実現を支持する論陣を展開した。その政治的な立ち位置は、子供の頃父親ネッケルと共に訪問したこともあるイギリスの政治形態であり、「君臨すれども統治せず」を是とする国王のもとでの議会政治による立憲君主政によってフランスの安定させるというものであった。しかし、革命はスタールの思惑を越えて過激化して行き、ついには共和政政府によるルイ16世やマリ-=アントワネットの処刑へと突っ走っていった。スタールはマリ=アントワネットの処刑に公然と反対を表明するなど、ジャコバン派独裁と対立を深めたため、彼女はパリを離れ、スイスのジュネーブ近郊コペにある父親の別荘に引き上げることになった。コペの別荘では、ジャコバン政権の恐怖政治から逃れてきたバンジャマン=コンスタンなどと交流を深めながら、政治論の傍ら、小説執筆や劇作を行った。ナポレオンとの対立
ロベスピエールの恐怖政治はテルミドールのクーデタで崩壊した。スタールもパリに戻り、政界に復帰したが、弱体な総裁政府のもとで政治は混乱した。その中でナポレオンが台頭すると、スタールもその行動力を評価して近づいたが、スタールの自由主義はナポレオンには理解できず、権力欲を隠さないナポレオンの独裁的思考はスタールには受け容れることが出来なかった。ナポレオンはスタールを危険な思想の持ち主と断じ、1802年には国外追放処分とした。Episode ナポレオンとスタールの会話
1797年12月6日、イタリア遠征でオーストリア軍に勝利を飾ったナポレオンを歓迎するため、外務大臣タレーラン邸で盛大な祝宴が開かれた。そのとき、スタールは初めてナポレオンと対面した。同席した人物によってその時のやりとりが記録されており、それはやがて伝説となった。スタールはナポレオンに近づいて賛辞を送ったが、そっけない反応しか返ってこない。不意に彼女は質問した。「将軍、誰よりも愛したくなる女性は?」
「妻です」 ジョセフィーヌのことだ。
「わかりやすいですこと。では、誰よりも尊敬したくなる女性は?」
「家のことを一番きちんとやる女ですな」 ナポレオンはいらだって答えた。
「わからぬでもありません。では将軍にとって女の中の女とは?」
「一番たくさん子供を産んでくれる女ですよ!マダム」というとさっと背を向けた。
「閣下は」と、がっかりしてスタールはつぶやいた。
「とても変わった方ね・・・」
<佐藤夏生『スタール夫人』p.51-52/工藤庸子『政治に口出しする女はおきらいですか?』p.101 により構成>
(引用)将軍ボナパルトの凝縮された応答が開示してみせるのは、数年後の「ナポレオン法典」が隠然たる力学によってもちあげる、男性中心的な家族像にほかならない。<工藤庸子『政治に口出しする女はおきらいですか?』p.101>
ドイツ=ロマン主義をフランスに紹介
1804年のナポレオン1世が即位し帝政下でもスタールの国外追放は続いていた。スタールは、スイスのコペの別荘で盛んに批判の論陣を張り、ヨーロッパの反ナポレオン陣営(対仏同盟)とも連絡をとった。さらに旺盛な行動力を発揮し、この間、ドイツ・ロシア・イギリス・ローマなどヨーロッパ各地に旅行し、旺盛に新しい知識を身につけていった。特にドイツではワイマールでゲーテやシラー、シュレーゲルなどのロマン派の文学者と交流し、ロマン主義の文学を我が物としていった。ナポレオン退位後の1815年に帰国すると、『文学論』、『ドイツ論』などの評論によってフランスにロマン主義を紹介、また自らも小説『デルフィーヌ』や『コリーヌ、またはイタリア』などを発表し、フランス=ロマン主義文学の先駆者となった。ナポレオン後のフランスでは、スタールの他にもシャトーブリアンなどが活躍し、ロマン主義文学の隆盛をもたらした。スタールは、1817年に波乱に満ちた生涯を終えた。