ネッケル
18世紀末、フランス・ルイ16世のもとで財務長官として財政改革にあたった銀行家。特権身分への課税や三部会の議員配分の変更を提案したが罷免され、それをきっかけに1789年の民衆蜂起が起こり、フランス革命が始まった。
フランスのブルボン王朝、ルイ16世によって、1777年にテュルゴーに代わって財務総監督官に任命される。ネッケルはスイス人の銀行家。プロテスタントだったため総監の称号は与えられなかったが、今日の内務・大蔵・経済の各大臣に相当する権限を持っていた。アメリカ独立戦争の援助を増税でなく借入で行い、人気を得た。
三部会での第三身分の政治的平等を求める動きが活発になり、6月に国民議会と改称して憲法の制定を要求、球戯場の誓いを行って、ルイ16世もやむを得ず認めて7月9日に国民議会が発足した。第三身分の側に立ち、貴族に対する増税を主張するネッケルに対して、貴族による退任要求が強まり、同年7月11日にルイ16世はそれを容れて再びネッケルを罷免した。この1789年7月11日のネッケルの罷免のニュースが翌日にパリ中に広がると、改革派の若い弁護士カミーユ=デムーランらが「ネッケルの罷免は国民に対する攻撃だ」と民衆に訴え、パリ民衆の国王への不満に火がついたかたちとなり、7月14日にそれが爆発してバスティーユ牢獄襲撃となった。ネッケルの罷免はフランス革命への引き金となったといえる。
初めて国家予算を公表
ネッケルは、『国王への報告書』、つまりフランスの予算を公表した。それはフランス史上始めてであり、好評を得て、英語その他ににも翻訳された。彼は予算の均衡していることを示したが、それでも廷臣への手当が過大であること、アメリカへの援助支出が計上されず、臨時支出とされていたことから、自分達の手当を暴露された廷臣たち、いいかげんな予算書を公表して人気を博したと怒った財政官たちからの批判が強くなり、1781年5月辞任を余儀なくされた。二度目の罷免と革命の勃発
その後、1788年8月に財務長官に復帰して財政の立て直しにあたるとともに、宮廷内での自由主義的な改革を進めた。それをうけて、1789年5月、ルイ16世は特権身分(貴族)に対する課税を承認させるため170年ぶりに三部会を開催した。ネッケルは国庫の赤字について報告し、免税特権のある貴族に対する課税を主張した。また、三部会の議員の構成では圧倒的に人口の多い第三身分の代表の議席数を増やすことを提案した。三部会での第三身分の政治的平等を求める動きが活発になり、6月に国民議会と改称して憲法の制定を要求、球戯場の誓いを行って、ルイ16世もやむを得ず認めて7月9日に国民議会が発足した。第三身分の側に立ち、貴族に対する増税を主張するネッケルに対して、貴族による退任要求が強まり、同年7月11日にルイ16世はそれを容れて再びネッケルを罷免した。この1789年7月11日のネッケルの罷免のニュースが翌日にパリ中に広がると、改革派の若い弁護士カミーユ=デムーランらが「ネッケルの罷免は国民に対する攻撃だ」と民衆に訴え、パリ民衆の国王への不満に火がついたかたちとなり、7月14日にそれが爆発してバスティーユ牢獄襲撃となった。ネッケルの罷免はフランス革命への引き金となったといえる。
Episode ネッケルの娘
ネッケルの娘が、自由主義者として知られ、文学者でもあったスタール(スタールは夫の姓)である。彼女はナポレオンを批判したために迫害され、ドイツに亡命してロマン主義文学に傾倒し、それをフランスに伝え、自らフランスのロマン主義文学の先駆者となった。ネッケルの人物評
(引用)ネッケルという人物はプロイセン人の移民の息子としてジュネーヴで生まれ、富を築くためパリに出てきたのだが、それに成功したのちは社交界にのしあがってきていた。その妻は自宅をサロンとして開放して晩餐をふるまい、その娘は1786年にスェーデン大使のスタール男爵と結婚した。彼の屋敷は文筆家たちに開放されており、文筆家たちはこの寛大なパトロンに啓蒙哲学者と革新家という名声を与えることで、その恩顧にむくいていた。ネッケルは、その第一期の内閣時代に、ちょっとした改革をやろうとしたばかりに宮廷を敵にまわすことになり、罷免されたおかげで人気をはくした。彼の財務行政に関する著書やカロンヌとの論争は、ますますその名声を高めた。そのようなわけで、人々は彼に奇跡を期待していた。
ネッケルは熟練した実務家であり、また、銀行家でもありプロテスタントでもあるため、ある程度まで、パリのみならずスイスやオランダの外国人金融業者の協力を得ることができた。政治や経済の最悪の状況の中で、彼は一年間にわたり国家を持ちこたえさせるのに成功した。……もし彼が偉大な政治家であったならば、……適切な改革案を断乎として作成する許可を国王から得た上で多数派工作をやることが不可欠であることを、見通したはずであった。しかし、ネッケルは高邁な精神も強い性格も持ち合わせていなかった。彼は実現すべき事業について全般的な見通しを欠如しており、また、この点は彼を非難する人々が見落としていることだが、もし彼がそれを持っていたとしても、それを実行できる状態にはなっていなかった。彼は国王の弱気や、王妃や王族の影響力を知っており、また、いかにして特権者たちが彼の先任者たちに打ち勝ったかを知っていた。そのうえ、彼は個人的には、虚栄心を満足させてくれる権力の保持に何よりも汲々としていた。・・・<G.ルフェーヴル/高橋幸八郎他訳『1789年―フランス革命序論』1939初刊 岩波文庫1998>