ボウリング条約(ボーリング条約)
1855年のイギリスとタイの間で締結された通商条約。タイにとって不利な不平等条約であったが、コメが主要な輸出品とされた。
タイ(当時はシャム)のラタナコーシン朝のラーマ4世が、1855年にイギリスと結んだ通商条約。ボウリング(またはボーリング、バウリングとも表記)はイギリスの特使、ジョン=ボウリング Bowring 。イギリスはこの前年に日英和親条約を締結している。この条約では自由貿易の原則、低関税(一律3%)、領事館の設置と治外法権の承認などが定められており、日本の開国後にアメリカと1858年に締結した日米修好通商条約(同様の内容でイギリスとも)などと同じ不平等条約であった。タイは同様の条約をアメリカ、フランス、オランダなどの西欧諸国と締結していく。
この条約によってそれまで宮廷が独占していた貿易を一般の商人に開放したので、王室や貴族にとっては大きな減収となるがラーマ4世はそれを断行した。閉鎖的な旧来の貿易機構は崩壊していったが、一方で米は輸出品として需要が高まり、それまで荒れ地だったチャオプラヤ川下流の平原は急速に開発が進み、現在見るような大稲作地帯に変貌した。
コメの輸出に対し、輸入は綿織物などの繊維製品に代表されるイギリスの工場で生産された製品であった。こうしてタイとイギリスの経済的結びつきは強いものになっていった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.107-111>
この条約によってそれまで宮廷が独占していた貿易を一般の商人に開放したので、王室や貴族にとっては大きな減収となるがラーマ4世はそれを断行した。閉鎖的な旧来の貿易機構は崩壊していったが、一方で米は輸出品として需要が高まり、それまで荒れ地だったチャオプラヤ川下流の平原は急速に開発が進み、現在見るような大稲作地帯に変貌した。
タイの貿易構造
ボウリング条約で開国したことを契機に、タイの主要輸出品となった米の需要が急増した。タイのチャオプラヤ川河口デルタは、ビルマのエーヤワディ川、ベトナムのメコン川のデルタとともに東南アジア大陸部の三大コメ産地の一つとなった。その背景には、列強の植民地経済支配の構造化の中で、島嶼部のインドネシアが砂糖とコーヒー、マレー半島がゴムとスズなどの特定の商品作物に限定されたため、それらの地域の食物として輸出されたことがあげられる。また、その輸出はイギリス証人が一手に担ったが、その輸出先はイギリス本国ではなく、シンガポール、ペナン、香港という拠点となる植民地に向けてのものだった。タイのコメは後には日本や中国に輸出され、現在に至るまで主要な輸出品となっている。コメの輸出に対し、輸入は綿織物などの繊維製品に代表されるイギリスの工場で生産された製品であった。こうしてタイとイギリスの経済的結びつきは強いものになっていった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.107-111>
タイの条約改正
ボーリング条約をはじめとするタイが諸外国と結んだ通商条約は、1858年に日本がアメリカなどの諸国と結んだ日米修好通商条約と同様の不平等条約であり、特に領事裁判権は中国人などが英仏の領事館の保護民となって多数流入し、不法を働き、治安が悪化するという問題が生じていた。明治の日本と同じく、近代タイ国も条約改正は悲願となり、繰り返し交渉を試みた。タイは条約改正の見返りとして英仏に領土をそれぞれ割譲せざるを得なくなり、フランスに対してはラオス、カンボジアに隣接する領土、イギリスに対してはマレー半島のタイ領をそれぞれ割譲した。そして条約改正が完了するのは締結から85年もたった1940年であった。参考 タイは英仏の侵略で国土が半分になったのか?
なお、タイ(シャム)は、不平等条約を改正する過程で、イギリスとフランスにそれぞれ領土の割譲を許したため、「タイ最盛期の領土の約半分を失った」と言われることがある<『タイの事典』同朋舎 p.158 など>が、これには誇張があるようだ。現在のタイの面積は約51万km2。その2倍とすると最盛期は100万km2を超えることになる。ところが現在のカンボジアとラオスの面積の合計が約42万km2であり、あわせて100万km2に近い。つまり、タイが最盛期の領土といっている範囲にはカンボジアとラオスを入れていると思われる。実はカンボジアとラオスはタイとベトナムに朝貢する両属体制の国であったのであり、タイの直轄領ではなかったのに、カンボジアとラオスがフランスの保護権でなるのを認めたことを、あたかも自国領を手放したように表現して被害者であることを強調したのであろう。「タイは英仏の侵略で領土が半分になった」というのそのままでは受け取れない話であり、かえってカンボジアとラオスを属領視していたタイのむしろ加害者としての側面もみせている。<代ゼミ教材センター 越田氏の指摘による>