フランス領インドシナ連邦
インドシナのベトナム・カンボジア・ラオスにまたがるフランスの植民地支配地域をいう。1858年に侵略を開始、1887年にインドシナ連邦を発足させて総督を置き、1899年にはラオスを保護国化して完成させ、1945年まで続いた。
「フランス領インドシナ」(仏印)ともいう。直轄領コーチシナ(南部ベトナム)、半直轄半保護国のトンキン(北部ベトナム)、保護国のアンナン(中部ベトナム)、カンボジア、ラオスから構成される、フランスの東南アジアにおける植民地の総称。
※注意 フランス領インドシナ連邦には、直轄領(ベトナム南部=コーチシナ)と保護国(ベトナム北部=アンナン・トンキン、カンボジア、ラオス)、その中間形態(トンキン、形式的には阮朝が存続していた)から構成されていることに注意する。
カンボジア保護国化 ここからインドシナのフランス植民地の形成が始まり、ついでカンボジアに迫って国王ノロドム王との間で1863年に条約を締結、カンボジアを保護国化した。カンボジアに対する宗主権を主張していたタイに対しては、カンボジアの北西部二州の宗主権だけを認めて、他を放棄させた。
ラオス保護国化 さらにフランスは、メコン川左岸の現在のラオスの宗主権をもっているタイに対してその保護化を要求し、それが拒否されると口実を設けて1893年7月、軍艦を派遣してチャオプラヤ川河口を突破し、タイ側の砲台と交戦して損害を与え、バンコク港を封鎖してタイに最後通牒を突きつけ(パークナーム事件)、タイにラオスの宗主権を放棄させる条約を1893年10月3日に締結した。その上で1899年のラオスを保護国化したことによって完成した。
フランス領インドシナ全体ではベトナム人が人口の70%を占め、かれらは中華世界に属していたことから科挙による官僚制をすでに有していたため、現地官僚として採用され、カンボジアやラオスに派遣され、フランスの植民地統治を支えた。フランス領インドシナ連邦は、フランス帝国主義にとって重要な植民地となり、19世紀末から統治機構が整備されていったが、同時にベトナム人の独立運動も知識人を中心に始まった。
1930年代からは独立運動はホー=チ=ミンが結成したインドシナ共産党が推進することとなり、社会主義国家建設に向かう。そのような中で日本の東南アジア進出が積極化し、フランスの植民地支配も大きな危機を迎えることとなった。
※注意 フランス領インドシナ連邦には、直轄領(ベトナム南部=コーチシナ)と保護国(ベトナム北部=アンナン・トンキン、カンボジア、ラオス)、その中間形態(トンキン、形式的には阮朝が存続していた)から構成されていることに注意する。
ナポレオン3世の植民地政策
ベトナム南部の割譲 ベトナムの阮朝に対して、フランスのナポレオン3世は、1858年に宣教師殺害事件を口実にインドシナ出兵(フランス=ベトナム戦争)を開始、ベトナム南部を占領して、1862年のサイゴン条約でのコーチシナ東部三省を割譲させた。さらに、1867年にコーチシナ西部三省を占領した。カンボジア保護国化 ここからインドシナのフランス植民地の形成が始まり、ついでカンボジアに迫って国王ノロドム王との間で1863年に条約を締結、カンボジアを保護国化した。カンボジアに対する宗主権を主張していたタイに対しては、カンボジアの北西部二州の宗主権だけを認めて、他を放棄させた。
第三共和政下のフランス
ベトナム北部保護国化 ナポレオン3世の第二帝政が倒れ、フランスでは第三共和政が成立したが、そのもとでも植民地政策は基本的には変化せず、ベトナム侵略はさらに拡大した。1880年代に入るとフランスはベトナム北部に侵出し、ハノイを攻撃、1883年~84年に2次にわたるフエ条約でベトナム(アンナン、トンキン)保護国化を阮朝に認めさせた。これに対して、阮朝の宗主国である清朝が抗議し、1884年に清仏戦争となったが、フランスは清軍を破り、ベトナム保護国化を承認させた。こうしてフランスはベトナム・カンボジアを植民地化して、1887年10月17日にフランス領インドシナ連邦とし、総督を置いて統治することとなった。ラオス保護国化 さらにフランスは、メコン川左岸の現在のラオスの宗主権をもっているタイに対してその保護化を要求し、それが拒否されると口実を設けて1893年7月、軍艦を派遣してチャオプラヤ川河口を突破し、タイ側の砲台と交戦して損害を与え、バンコク港を封鎖してタイに最後通牒を突きつけ(パークナーム事件)、タイにラオスの宗主権を放棄させる条約を1893年10月3日に締結した。その上で1899年のラオスを保護国化したことによって完成した。
フランス統治とベトナム人
フランスは総督府をハノイに置き、各邦にそれぞれの行政機関を置いた。保護国では各国王の宮廷があり、ベトナム人官吏が統治に当たったので、二重構造となった。フランス領インドシナ全体ではベトナム人が人口の70%を占め、かれらは中華世界に属していたことから科挙による官僚制をすでに有していたため、現地官僚として採用され、カンボジアやラオスに派遣され、フランスの植民地統治を支えた。フランス領インドシナ連邦は、フランス帝国主義にとって重要な植民地となり、19世紀末から統治機構が整備されていったが、同時にベトナム人の独立運動も知識人を中心に始まった。
民族運動の始まり
ファン=ボイ=チャウは維新会を組織してベトナムの民族運動の組織化を開始、各地で反仏蜂起を指導すると共に、日露戦争に勝った日本に学ぶことを提唱して1905年からは東遊(ドンズー)運動を開始した。また日本の支援も期待したが、1907年、フランスと日本は日仏協約を締結、フランスのインドシナ支配と日本の韓国保護国化を相互に認めたことによって日本政府がベトナム人留学生の追放に踏み切ったため、失敗した。その後、1911年の辛亥革命の成功はベトナム独立運動にも刺激を与え、1912年にはベトナム光復会を組織して盛んに抵抗運動を展開したが、フランスはそれを厳しく弾圧した。1930年代からは独立運動はホー=チ=ミンが結成したインドシナ共産党が推進することとなり、社会主義国家建設に向かう。そのような中で日本の東南アジア進出が積極化し、フランスの植民地支配も大きな危機を迎えることとなった。
フランス領インドシナ連邦の解体
日本ではフランス領インドシナ連邦を「仏印」と呼び、フランスがドイツが降伏したことを受けて1940年9月に日本軍を北部仏印進駐にさせ、ついで41年7月に南部仏印に進駐した。これはアメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争開戦への導因となった。フランス統治の終わり
なお日本はこの地を統治するに当たり、当初はフランスとの共同統治としたが大戦末期の45年3月、フランスを排除したため、フランス領インドシナ連邦は実質的に解体した。日本の敗北後の同年9月、ホー=チ=ミンの指導するベトナム民主共和国が独立すると、46年からフランスは植民地支配の復権をねらい、それを阻止しようとするベトナムとの第一次インドシナ戦争となる。その結果、フランス軍はディエンビエンフーの戦いで大敗北を喫し、1954年ジュネーヴ休戦協定に応じ、フランスのベトナム支配は終わりを告げた。 → ベトナムの独立