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ラオス/ラオス内戦/ラオス人民民主共和国

インドシナ中部、メコン川の上流にあるラオ人の国家。ランサン王国など独自の歴史と文化を有するが、1899年にフランス領インドシナに組み込まれた。第2次世界大戦後ラオス王国として独立したが、1960年代に激しい内戦となり、1975年に社会主義政権が成立した。

ラオス GoogleMap

ラオスは東南アジア・大陸部の、北は中国とビルマ、東をベトナム、西をタイ、南をカンボジアに囲まれている内陸国。国民はラオ人であるが、山岳部などに多数の少数民族が居住する多民族国家である。14世紀にメコン川中流にランサン王国が成立した。しかし、常に近隣のベトナム人、シャム人(タイ)、クメール人(カンボジア)、ビルマ人の侵攻があり、そのような中で19世紀にはフランスの帝国主義が及び、そのインドシナ植民地支配に組み込まれた。第2次世界大戦後の1953年にラオス王置くとして独立したが、1960年代にはベトナム戦争の影響を受けて激しいラオス内戦となった。ようやく1975年に王政を廃止して社会主義政権が成立、ラオス人民民主共和国となった。現在も憲法でラオス人民革命党の一党独裁のもとで社会主義国家を掲げているが、経済面では市場経済導入が進んでいる。
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ランサン王国

 14世紀にラオ人のランサン王国がメコン川流域に成立、ルアンプラバンを都にファーグム王が即位した。西にはタイのアユタヤ朝、南にはカンボジアのアンコール朝、東にはベトナムの黎朝があったが、近隣諸国と抗争しながらも象牙、漆、香料、犀の角などの交易を行って栄え、16世紀にはその領土は最大になった。しかし、18世紀には王国が北部のルアンプラバン、中部のビエンチャン、南部のチャンパサックの三つに分裂してしまい、その結果、タイなど周辺の介入を受けて衰退していった。
 1778年、ビエンチャンはタイ(当時はシャムのトンブリー朝)のタークシン王に征服され、次のラタナコーシン朝宗主国としてこの地を支配した。19世紀に入り、アヌウォン王がチャンパサックを併せ勢力を挽回すると、1824年イギリス=ビルマ戦争が起こって、イギリス軍がビルマに次いでタイに侵攻するといううわさが立つと、自立のチャンスと考えて1827年にタイに対する反乱を起こした。しかし反撃したタイ軍によってビエンチャンは徹底的に破壊され、荒廃した。こうしてビエンチャンはタイに併合され、ルアンプラバンはベトナムの支配下に入ったが、そのような状況の所にフランスが進出してきた。

(1)ラオスのフランス植民地化

 19世紀後半、フランスはナポレオン3世のインドシナ出兵以来、インドシナ半島への侵出を進め、1862年に南部ベトナムのコーチシナ東部三省を直轄植民地としたのを手始めに、カンボジアを保護国化し、ついで中部ベトナムのアンナン、北部ベトナムのトンキンを保護国化、次にベトナム・カンボジアに隣接するラオスを狙った。当時、タイ(シャム)とラオスの国境が確定しなかったことを口実に、ラオスに宗主権を有していたタイに対してメコン川左岸(つまりラオス)の領有を通告した。

フランス、タイと交戦

 タイが拒否すると、おりから起こったフランス人官僚殺害に対する抗議という名目で1893年7月に砲艦三隻がチャオプラヤ川河口を突破し、タイと交戦、さらにバンコク港を封鎖してタイに最後通牒を突きつけた(パークナーム事件)。タイはイギリスの支援を期待したがイギリスが動かなかったため、やむなくフランスの要求を入れ、300萬フランの賠償金の支払いと、メコン川左岸の宗主権放棄を受諾した。こうしてフランスの恫喝にタイは屈服し、1893年10月3日、バンコクでラオスの宗主権を放棄するフランス=シャム条約を締結した。次いで、1899年にはラオスをフランス領インドシナ連邦に組み入れて植民地支配を開始した。
 フランス植民地時代のラオスは、それまで関係の深かったタイと切り離され、ベトナム人が多く移住するようになった。フランス植民地当局はカンボジア保護国と同様、ラオスにおいても意図的にベトナム人を利用したのだった。

フランスにとってのラオス

 フランスがラオスを植民地とした目的の一つは、中国貿易のための南シナ海ルートをライバルのイギリスに押さえられたので、ベトナム南部で南シナ海に流れ込むメコン川を船で遡上し、カンボジアとラオス経由で中国との貿易をおこなおうとしたことにあった。しかし、ラオスを植民地化してからの調査で、ラオス南部に落差の大きいコーン瀑布などの難所があるため大型船舶の航行が不可能であることが判った。そこでこのルートでの中国貿易をあきらめ、平地も少なく資源もないラオスの開発をほとんどしなかった。
 そのためフランスのインドシナ植民地(ベトナム・カンボジア・ラオス)の輸出総額に占めるラオスの比率は1%強に過ぎなかった。教育分野でも同様であり、フランスは現地人官僚を育成するために1907年にハノイにインドシナ大学を創設したが、1937/38年の学生数はベトナム人の547人に対してカンボジア人は4人、ラオス人はわずか2人だった。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.74>

(2)ラオスの独立

フランス領インドシナに組み込まれたラオスでは、第二次大戦後、ラオス愛国戦線(パテト=ラオ)による独立戦争が展開される。フランスは、1953年、ラオス王国を独立させ、傀儡化しようとしたが失敗、1960年代にラオスは王政派、愛国戦線、中間派などが激しく抗争する内戦となり、混乱が続いた。

 フランス領インドシナ連邦の一つとして、フランスの植民地支配を受けていたラオスでは、第二次世界大戦中に日本軍が侵攻し、その支持によって1945年に独立を声明した。しかし日本軍が撤退するとただちにフランス軍が戻り、植民地支配を復活させた。それに対して民族独立を目指す「自由ラオス」(ラオ=イッサラ)が結成され、45年10月にビエンチャンに臨時政府を樹立したがフランス軍に弾圧され、タイに移って亡命政府をつくった。

ラオス王国の独立

ラオス王国国旗

ラオス王国国旗

 フランスは1946年、王家の一つルアンプラバンの王家を国王とするラオス王国に自治を与え、次いで49年、フランスとの協同国として独立を認めた。このラオス王国が存続した1947~1975年の間、ラオスの国旗には右のようなものが用いられた。これは、ラオス最初の統一王朝であったランサン王国の始祖ファー=グム王が、白象にまたがり白い日傘をさして現れたという建国伝説に基づいている。<辻原康夫『図説国旗の世界史』2003 ふくろうの本 河出書房新社>

ラオス愛国戦線とパテト=ラオ

 フランスから与えられた形式的な独立に飽き足らず、真の独立をもとめ、王政に反対した「自由ラオス」は1950年に「自由ラオス戦線」を結成、56年に「ラオス愛国戦線」と改称した。この間、ラオス愛国戦線の、フランスからのラオス独立戦争を戦う戦闘部隊となったのが「パテト=ラオ」であった。
 そのころ隣のベトナムにおいてもフランスからの独立戦争であるインドシナ戦争が激しさをましていた。ホー=チ=ミンに率いられたベトナム民主共和国軍は、優位な戦いを進めた。危機感を持ったフランスは、1953年にラオス王国に完全な独立を与えて懐柔したが、1954年9月にディエンビエンフーの戦いで敗れた。ディエンビエンフーのベトナム軍の勝利の背景には、隣接するラオス北部をパテト=ラオが抑え、ベトナム軍の行動を支援したことがあげられている。

アメリカの介入

 翌1954年にはジュネーヴ休戦協定に調印し、フランスのインドシナ支配は終わりを告げた。ジュネーヴ協定のラオス条項ではフランスはラオス・カンボジアの独立と中立を認め、ベトナムと同様に停戦、外国軍の撤退、連合政府の樹立、その前提としての選挙の実施などが予定されていた。しかし、アメリカは協定を守らず、東南アジア条約機構(SEATO)を発足させてラオスにも軍事介入し、ラオス王国政府軍を支援、ラオス愛国戦線のパテト=ラオの壊滅を図った。

(3)ラオス内戦

ベトナム戦争と平行してラオスでもアメリカの支援を受けた王国政府と、反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)が激しく争った。1974年に社会主義政権が成立して終わった。

 アメリカはラオス王国政府を支援したが、王政反対と反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)は、北部2州を実効支配して抵抗を続け、内戦は激化していった。一時、王政派、パテト=ラオらの三派連立政府が成立したが、長続きせず1962年から内戦状態に戻った。隣国でベトナム戦争が始まると連動してラオスも内戦がさらに激化した。
 1960年代後半に、ベトナム戦争が泥沼化すると、アメリカはベトナムの西に隣接するラオスの左派のラオス愛国戦線による南べトナム解放民族戦線支援を遮断する目的で、1971年2月、ラオスに侵攻に踏み切った。
 しかし愛国戦線を沈黙させることができず、かえって反米・民族独立の気運が高まり、1973年9月、ラオス政府とラオス愛国戦線の間で、臨時民族連合政府樹立の合意が成立、平和議定書が締結された。愛国戦線の部隊が首都ビエンチャンに1963年以来10年ぶりに入り、1974年4月5日にはラオス民族連合政府が成立してようやく内戦が終わった。

(4)ラオス人民民主共和国

60年代からのラオス内戦を収束させ、1975年に王政を廃止して成立した、社会主義政権。

ラオス国旗

現在のラオス国旗

 ラオスは第二次世界大戦後、フランスの植民地から形式的にラオス王国として独立していたが、1960年代から、アメリカの支援する王政派と、王政反対と反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)との激しい内戦が続いた。ベトナム戦争での民族解放戦線の勝利に伴い、ラオスでもパテト=ラオが優勢と成り、1974年に民族連合政府が成立、翌75年12月、ラオス人民民主共和国を樹立した。
 権力を握ったラオス人民革命党はベトナムとの関係が強く、その協力の下で社会主義政策を進めたが、80年代にベトナムと同じく経済が行き詰まり、現在は市場経済の導入などの改革路線に転換している。1997年にはASEANに加盟した。しかし、政治では現在もラオス人民革命党の一党支配が続いている。
 民族的にはラオ人が主体だが、49に及ぶる少数民族からなる多民族国家である。首都はビエンチャン。

ラオスの国旗

 ラオスの国旗は王政時代にはランサン王国の建国神話をもとにした三頭の象を赤地に配したものが用いられていたが、1975年に人民民主共和国となってからは、上下に人民を表す赤、中央に国土を表す青、中央に清潔を表す白丸を配した、ラオス愛国戦線が使用していた旗を国旗としている。
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書籍案内

青山利勝
『ラオス―インドシナ緩衝国家の肖像』
1995 中公新書