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マカートニー

イギリスの外交官で、1793年、広州以外の開港などを自由貿易を要求するため清朝に派遣された。

 1793年、イギリス最初の中国への使節として清に派遣し、乾隆帝に直接面談して、自由貿易を認める通商条約締結の交渉を行おうとした。清朝側は皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼をとることを要求。マカートニーはそれを拒絶、謁見は果たしたが、交渉に入れず、自由貿易も認められず帰国した。
 イギリスの対中国貿易はの輸入が増大しつつあったが、さらに産業革命を達成し、中国を大きな市場と考え、綿織物などの工業製品の輸出を進めようとした。清朝政府は伝統的な冊封関係にある国との朝貢貿易以外は、互市貿易として認めていたが、1757年以来、欧米船については入港を広州一港に限定し、しかも特許商人の組合である公行だけに管理させていた。その他、外国商人は広州で冬を過ごしてはいけないとか、公行の家に居住しなければならないなど大幅な規制が加えられていた。

マカートニー使節団

 イギリスはこのような互市貿易による管理、制限を撤廃し、自由な貿易を保証する条約(あるいは協定)を締結しようと考え、マカートニーを使節として派遣することとなった。ただ直接の貿易交渉では受け入れられないので、乾隆帝の80歳の祝賀を国王ジョージ3世に代わって申し述べることを名目とした(実際には乾隆帝は83歳になっていた)。1793年9月、北京北郊の避暑山荘で乾隆帝への謁見を許された。清朝はあくまで従属国の朝貢使節として扱い、三跪九叩頭(三回跪き、九回頭を下げる)の礼を求めた。イギリス国王の使節で誇り高いイギリス紳士マカートニーとしてはそれを拒否した。結局、乾隆帝が度量の広いところを見せて遠来の労を労うという口実に、イギリス流に片膝を就いて親書を奉呈することで決着した。こうして謁見は実現したが、目的の条約締結については一切交渉できずに終わった。 → アマースト使節団
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