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広州

中国の南部、広東省の省都。古くから開港として繁栄した商業都市であり、ムスリム商人も来港した。清の乾隆帝の時、1757年には外国貿易は広州一港に制限された。その後、政治的にもしばしば華北政権への地方政権が樹立された。

広州・香港・マカオ GoogleMap

 現在の広東省の省都。日本では広東(カントン)と言うことがあるが、それは省名であり都市名ではない。都市としては広州が正しい。省名の広東は Kwang-tung であるが、ポルトガル人が広州を Canton と呼んだ。50kmほど内陸にあるが、珠江(チュー川)に面し、その河口(虎門湾とも云う)は広州湾につながるので、古くからの華南の最大の貿易港として栄えていた。 唐では交易を管轄する市舶司が置かれた。また宋・元の時代もムスリム商人などが渡来して盛んに海外との交易が行われた。
 明代にははじめてヨーロッパからポルトガル商人が来航して、広州近傍のマカオに拠点を設けた。また清朝は海外貿易の独占を計り、広州など4ヶ所に海関を置いて管理した。さらに乾隆帝の時、1757年に広州は外国貿易の認められた唯一の港となり、公行(外国貿易特許商人)が設けられた。それに対してイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の自由貿易の要求が強まり、ついにアヘン戦争となって、広州以外の諸港が開港される。その後も広州は華南の主要都市として重要な舞台となり、特に孫文らの反清運動から辛亥革命の大きな動きの拠点とされていく。

唐~宋~元代の広州

 特に唐時代には、陸路の絹の道に代わって、海路による東西交易が盛んになったが、その拠点が広州であり、貿易事務・徴税を担当する市舶司が置かれた。イスラーム教徒であるアラビア商人(ムスリム商人)が多数やってきて取引に従事していた。アラビア人は中国では大食(タージー)と言われ、蕃坊という外国人居住区に住んだ。その繁栄は、宋(北宋)に引き継がれたが、南宋では泉州が繁栄して、広州は衰退した。元代にはマルコ=ポーロによってカンフーと紹介されている。

明代の広州

 広州には早くから行といわれる商人の同業組合が作られ、広州の七十二行と言われていた。明の時、1517年ポルトガルの商人が来航、さらに1557年ごろには、その南方のマカオに居住を認められ、広州での交易にあたるようになり、外国貿易で繁栄した。

清朝の貿易独占政策

 清朝は、1685年に海禁をゆるめ、外国貿易港として広州など4港を定め、海関を置いて管理した。乾隆帝時代の1757年からは外国貿易を広州一港に限定したので唯一の貿易港として重要度は増した。日本の長崎と違い、どの国の商船とも交易が行われ、広州城の西約200mの一帯を外国人居住地として「夷館」と称していた。清代の康煕帝ごろになると、広州(外国商人は広東と呼んだ)の中で特に特許を得た有力な貿易商人十三人(家)が「広州十三行」と言われるようになった。そのような特許商人を公行(コホン)という。公行以外の商人の取引や、広州以外での貿易は認められず、自由貿易は否定されて貿易も制限されるという貿易管理体制であった。これを外国商人は非難を込めて「カントン・システム」と呼んだ。

イギリスの自由貿易要求

 18世紀後半になって産業革命を達成したイギリスでは、工業生産された綿織物などの市場を開拓しようと考えるようになった。広州の公行貿易という制限貿易(カントン・システム)に対し、飽き足らないイギリスの外国商人は、中国との自由な貿易の拡大を要求、1793年マカートニー使節団を初めとして何度か交渉を試みたが、清朝は広州一港での管理貿易の姿勢を変えず失敗した。1834年にはネイピアが広州に上陸し、交渉を目指したが同じく失敗した。

アヘン戦争と南京条約

イギリスはついに1840年にアヘン戦争という強硬手段に訴えた。その結果、1843年に南京条約が締結され、広州の南方の香港島を割譲、広州は上海などとともに開港譲渡された。それによって広州は唯一の貿易港としての地位はなくなり、相対的に衰退することとなった。なお、1843年には広州の南の虎門寨で清が最恵国待遇を認めた虎門寨追加条約が締結されている。

近代の広州

 華南は清末から漢民族による反清運動が盛んであった。孫文も広東省の生まれで移民となりハワイに渡り、帰国後、香港で医学を学びながら革命を志し、1895年に広州で最初の挙兵を試みた(広州蜂起)。それには失敗したが、広州はその後も中国革命のひとつの拠点となった。辛亥革命を成功させた孫文であったが、袁世凱とその後継の北京の軍閥政府と対立し、1917年に広州で広東軍政府を樹立し大元帥となった。しかし、広東の軍閥勢力とも対立して上海に逃れ1919年に中国国民党を結成した。
五・三〇運動と省港スト 孫文は1920年代に入り急速にソヴィエト=ロシアと接近、1921年に結成された中国共産党との提携を進め、1924年に第1次国共合作に踏み切った。孫文は翌25に死去したが、国共合作によって北京を支配する軍閥とそれと結びついている帝国主義列強に対する戦いが本格化した。1925年には上海でもストライキに立ち上がった中国人労働者を、日本、イギリス、フランスの租界警備隊が殺害するという事件が相次いだことから五・三〇運動が起こると、その運動はたちまち広州・香港に波及した。広州では五・三〇運動を支援するストライキが起こり、1925年6月23日に中心街の沙基路で10万もの民衆が結集してデモ行進を始めたところ、イギリス・フランス租界の沙面の守備にあたっていたイギリス・フランスの租界守備隊がデモ隊に発砲し、52名の労働者が殺害された。広州のストライキを支援するため香港の労働者も決起して広州に向かうと、広東軍政府は労働者糾察隊を組織して香港を経済封鎖した。この広州と香港にまたがったストライキは省港スト(省は広東省の省都の広州、港は香港)といわれたた。香港の封鎖は1926年10月まで16ヶ月にわたって続けられその貿易港としての機能は失われた。
広東国民政府 五・三〇運動が盛り上がるなか、国共合作を進めた中国国民党と中国共産党は、広東軍政府を本格的な国家統治を行う政府機関に格上げし、1925年7月に広州に広東国民政府(首席汪兆銘)を樹立した。
 1926年から軍事権を握った蔣介石北伐を開始し、長江中流域を制圧すると、1927年には北上して本拠を武漢に遷した(武漢国民政府)。しかし北伐軍を率いた蔣介石が同年4月に上海クーデタを実行して共産党を排除し、南京国民政府を樹立したことから対立は決定的となり、同年7月15日、武漢国民政府は国民党右派が左派と共産党を排除したため、第一次国共合作は解消された。
 広州にはその後も政治的混乱によって幾つかの地方政権が樹立されたが、1937年に開始された日中戦争が進む中で、翌38年10月21日に日本軍に占領された。
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