望厦条約
1844年の清とアメリカの修好通商条約。アメリカにとって有利な不平等条約であった。
望厦(ぼうか)はマカオ郊外の地名で、条約が締結されたところ。アヘン戦争に敗れた清に対して、イギリスが南京条約を押しつけたことに便乗したアメリカ合衆国が、直ちに使節を派遣して、1844年に清側に認めさせた条約である。南京条約とほぼ同じ内容で不平等なものであり、さらに南京条約付則の五港通商章程での領事裁判権が処罰権だけであったのに対し、裁判権・処罰権も認めさせており、不平等を一歩進めている。
このときのアメリカ合衆国はホイッグ党の第10代のタイラー大統領で、南部の農民層を基盤としたジャクソン大統領の民主党政権に対し、東部工業地域の利益を擁護し、海軍力を強化して通商政策を推進する政策をとっていた。またその領土は西漸運動によって西に拡大を続けており、まもなく1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得し、大西洋岸に達することとなる。そのような時期に、将来の太平洋進出をふまえて、中国との有利な条約を締結しておこうというのが望厦条約であった。次の1850年代にはアメリカ船の中国への進出の中継地が必要が強まり、1853年に鎖国中の日本に強く開国を要求するため同じくホイッグ党のフィルモア大統領がペリー艦隊を派遣することになる。
このときのアメリカ合衆国はホイッグ党の第10代のタイラー大統領で、南部の農民層を基盤としたジャクソン大統領の民主党政権に対し、東部工業地域の利益を擁護し、海軍力を強化して通商政策を推進する政策をとっていた。またその領土は西漸運動によって西に拡大を続けており、まもなく1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得し、大西洋岸に達することとなる。そのような時期に、将来の太平洋進出をふまえて、中国との有利な条約を締結しておこうというのが望厦条約であった。次の1850年代にはアメリカ船の中国への進出の中継地が必要が強まり、1853年に鎖国中の日本に強く開国を要求するため同じくホイッグ党のフィルモア大統領がペリー艦隊を派遣することになる。