ナショナリズム/国民主義
ヨーロッパにおける主権国家形成期に始まる、国民国家の建設をめざす運動で、18~19世紀を通じて展開し、第一次世界大戦後、オーストリア帝国やロシア帝国の崩壊にともなって新たな国民国家が生まれた。また、ヨーロッパ列強の植民地であったアジア・アフリカでは植民地からの独立運動と一体となって進み、ほぼ第二次世界大戦後にその高揚期を迎えた。
nationalism の訳語は、「民族主義」、「国家主義」、「国粋主義」などの語が当てられており、その理解には注意を要する。世界史の上で限定して使用される場合は、主としてフランス革命に始まり、ナポレオン戦争を通じて拡がり、19世紀前半のウィーン体制時代にヨーロッパで高まって19世紀後半に他の世界にも拡大された、「国民が一つの主権のもとで統合された国家を形成すべきである」という、主権国家または国民国家という考え方を意味することが一般的であり、その場合は「国民主義」という訳語が最もふさわしい。その他、ナショナリズムの意味には具体的には次のようなものが挙げられる。
アンダーソンは「国民」(nation)の概念を明らかにする際にナショナリズム論者をいらだたせる三つのパラドックスをあげている。第一には歴史家には近代的現象と見える「国民」が、ナショナリストには古い存在と見えること。第二には社会文化的概念としてのナショナリティ(国民的帰属)が形式的普遍性を持つのに対し、それがいつも「手の施しようのない固有さ」をもって現れてしまうこと。第三にナショナリズムのもつ政治的影響力の大きさに対し、哲学的には貧困で支離滅裂である(ナショナリズムは、他のイズムとは違って、いかなる大思想家も生み出していない)こと。
このような問題が起きるのは、我々が無意識のうちに大文字のNで始まるナショナリズムの存在を実体化して、それをイデオロギーのひとつとして分類しようとするからである。しかし、「国民(ネーション)と国民主義(ナショナリズム)は「自由主義」や「ファシズム」と同類に扱うより、「親族」や「宗教」の同類の人類学的精神によって定義した方がよい。そのような観点からは、
「国民とはイメージとして心に描かれた“想像の政治共同体”である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」
と定義される。「国民は想像されたもの(イメージとして心に描かれたもの)である」とはどのようなことか、という説明には、ルナンの「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある」という文を引用している。また「国民」は、限定的なもの、主権的なものとして想像されるが、最後に「一つの共同体」として想像される。
・ナショナリズムの文化的根源 アンダーソンは「国民」が想像される以前の人びとの精神を支配していた基本的文化概念として、第一に特定の手写本語だけが存在論的真理に近づく特権的な手段を提供している、キリスト教世界やイスラム共同体などの大陸横断的信徒団体の存在。第二に社会が、宇宙論的摂理によって支配する王を中心に自然に組織されているという信仰。第三に宇宙論と歴史を不可分で本質的に同一であるという時間観念。これらの相互に連結した確実性は、経済的変化、「諸発見」、コミュニケーションの発展の衝撃の下、ゆっくりと減衰していった。そして同胞愛、権力、時間を新しく意味あるかたちでつなげようとする新たな模索を促進し、実りあるものにしたのが「出版資本主義」(プリント・キャピタリズム)であった。アンダーソンはこの「商品としての出版物の発展が、まったく新しい同時性の観念を生み出す鍵」であったと見る。<同書 p.62-63,76>
・公定ナショナリズム 19世紀後半以降、ヨーロッパでは資本主義の産物として、共通の言語を使用する集団による国民主義運動が昂揚し、君主に対して文化的な、そしてそれ故に政治的な難問をつきつけるようになった。それに対して君主たちは、民衆的国民運動の後に、それへの応戦として「公定ナショナリズム」(シートンワトソンが用いた概念)――国民と王朝帝国の意図的合同――を、貸衣裳によって国民的装いをした帝国を魅力的に見せるための手品を工夫する必要があった。その典型例がロシア帝国であり、非ヨーロッパ世界では日本とシャムの土着の支配集団によって採用され、模倣された。
ナショナリズムの諸概念と周辺の用語
- 他民族によって抑圧されていた民族が、独立して国家を形成しようとした例:オーストリア=ハンガリー帝国支配下のハンガリー、チェコ、ポーランドなどのナショナリズム。イギリス支配下のアイルランドの独立運動。(英語圏では nationalism といえばアイルランド独立運動のことを指す)
- 一つの民族がいくつもの権力のもとで分裂していたものを統合して一つの国家を形成しようとした例:ドイツとイタリアの統一運動。これらの運動は、市民革命後形成されたイギリス、フランス、アメリカ合衆国という先行する近代的主権国家に刺激され、内部の封建的な社会の仕組みの克服と、産業の発展を果たしながら進められた。
- なお、広い意味のナショナリズムとして用いられる「民族主義」は、主として植民地、あるいは他国に従属している民族が独立を目指して、民族意識を高めようとした用いられた、「宗教、言語、文化などの共有意識」を強調する思想をいう。インドのガンジー、中国の孫文、ベトナムのホー=チ=ミンらの思想がその典型であろう。
- ただし民族主義は「人種主義」(人種間の優劣を主張する考えで、人種差別を生む racism)と区別しなければならない。
- また、「国家主義」とは、国家をあらゆる価値の上位に置いて個人の人権や自由を制限、抑圧し、また国家目的なるものを構想して他国領土を侵略することで国家を拡大する思想であり、典型的にはナチス=ドイツやイタリアのファシズム、軍部支配の日本に見られた。またスターリン体制のソ連もそれにあたる。「国家主義」が「民族主義」と結びつくと、極端な排他思想である「国粋主義」に転化する恐れがある。そのような「狂信的愛国主義」にあたる言葉はショーヴィニズム chauvinism であり、健全な国家の独立や国民の統合を願う「愛国主義」または「愛国心」(パトリオティズム patriotism という)と区別されるべきものである。
- 一方でマルクスは国家を階級関係における抑圧機関と考えたから、国家の死滅を予測し、そのための運動として国際組織インターナショナル international をつくった。さらに国家に何らの価値も見出さず、無用なものと見てその破壊をめざす思想がアナーキズム anarchism である。
近代世界システムとナショナリズム
日本の高校の教科書では、19世紀前半のヨーロッパに展開したナショナリズムを「国民主義」と訳し、同じ世紀の末以降のアジア、アフリカなどのナショナリズムを「民族主義」と訳している。どちらも原語は「ナショナリズム」なのだが、このように訳し分けることで理解しやすくなる反面、そのためにみえなくなっているところもある。近代世界システムのなかで生き残っていくための手段がナショナリズムであり、そのかぎりでは、両者はひとつづきのものだということを、この訳し分けは、みえなくしてしまっている。年代的には一世紀ほど遅れているが、かつて東ヨーロッパやイタリアが国民国家をつくっていったのと同じ段取りで、20世紀中ごろにアジア、アフリカなどの諸国の住民が、それぞれの民族であることを主張して、「国民国家」をつくろうとした。そうでないと近代世界システムの中で不利になるからであった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.154>参考 アンダーソンの『想像の共同体』
1983年に発表されたベネディクト=アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(日本語訳は87年に刊。ソ連崩壊後に新たな論考を加えて増補版が刊行され、さらに2009年に『定本想像の共同体』日本語版が刊行されている)は、現代のナショナリズム論に大きな影響を与えた。その論旨は、「序文」でわかりやすく著者自身が解説しているのでそれをたどってみよう。アンダーソンは「国民」(nation)の概念を明らかにする際にナショナリズム論者をいらだたせる三つのパラドックスをあげている。第一には歴史家には近代的現象と見える「国民」が、ナショナリストには古い存在と見えること。第二には社会文化的概念としてのナショナリティ(国民的帰属)が形式的普遍性を持つのに対し、それがいつも「手の施しようのない固有さ」をもって現れてしまうこと。第三にナショナリズムのもつ政治的影響力の大きさに対し、哲学的には貧困で支離滅裂である(ナショナリズムは、他のイズムとは違って、いかなる大思想家も生み出していない)こと。
このような問題が起きるのは、我々が無意識のうちに大文字のNで始まるナショナリズムの存在を実体化して、それをイデオロギーのひとつとして分類しようとするからである。しかし、「国民(ネーション)と国民主義(ナショナリズム)は「自由主義」や「ファシズム」と同類に扱うより、「親族」や「宗教」の同類の人類学的精神によって定義した方がよい。そのような観点からは、
「国民とはイメージとして心に描かれた“想像の政治共同体”である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」
と定義される。「国民は想像されたもの(イメージとして心に描かれたもの)である」とはどのようなことか、という説明には、ルナンの「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある」という文を引用している。また「国民」は、限定的なもの、主権的なものとして想像されるが、最後に「一つの共同体」として想像される。
(引用)なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人びとが、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。<ベネディクト=アンダーソン/白石隆・さや訳『定本想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』2006 書籍工房早山 p.26>このようにアンダーソンの問題意識は、なぜ「近年の萎びた想像力」に過ぎないナショナリズムが、このような途方もない犠牲を生み出すのか、という点であり、手がかりとしてナショナリズムの文化的根源を究明しようとしたのがこの論考である。
・ナショナリズムの文化的根源 アンダーソンは「国民」が想像される以前の人びとの精神を支配していた基本的文化概念として、第一に特定の手写本語だけが存在論的真理に近づく特権的な手段を提供している、キリスト教世界やイスラム共同体などの大陸横断的信徒団体の存在。第二に社会が、宇宙論的摂理によって支配する王を中心に自然に組織されているという信仰。第三に宇宙論と歴史を不可分で本質的に同一であるという時間観念。これらの相互に連結した確実性は、経済的変化、「諸発見」、コミュニケーションの発展の衝撃の下、ゆっくりと減衰していった。そして同胞愛、権力、時間を新しく意味あるかたちでつなげようとする新たな模索を促進し、実りあるものにしたのが「出版資本主義」(プリント・キャピタリズム)であった。アンダーソンはこの「商品としての出版物の発展が、まったく新しい同時性の観念を生み出す鍵」であったと見る。<同書 p.62-63,76>
(引用)人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。<ベネディクト=アンダーソン 前掲書 p.86>・ラテンアメリカ諸国の独立 しかし、今日ほとんどすべての近代的国民国家は「国民的出版語」を有しているとはいえ、しかしその言語はラテンアメリカ諸国やアングロサクソン語諸国のように言語を共有している場合と、アフリカ諸国のような旧植民地国家は国民のごく一部だけが国民語を使用している場合とがある。 以下、各論に入っていくが、まずアンダーソンはヨーロッパの本国と言語を共有しているにもかかわらず、1776年から1838年にかけて西半球に興った一群の新しい政治的実体、(ブラジルを例外として)みずからを国民として、自覚的に共和国と定義した諸国に注目する。 → ラテンアメリカの独立
・公定ナショナリズム 19世紀後半以降、ヨーロッパでは資本主義の産物として、共通の言語を使用する集団による国民主義運動が昂揚し、君主に対して文化的な、そしてそれ故に政治的な難問をつきつけるようになった。それに対して君主たちは、民衆的国民運動の後に、それへの応戦として「公定ナショナリズム」(シートンワトソンが用いた概念)――国民と王朝帝国の意図的合同――を、貸衣裳によって国民的装いをした帝国を魅力的に見せるための手品を工夫する必要があった。その典型例がロシア帝国であり、非ヨーロッパ世界では日本とシャムの土着の支配集団によって採用され、模倣された。
(引用)つまり、「公定ナショナリズム」は、共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略なのだ。<ベネディクト=アンダーソン 前掲書 p.165>・最後の波 主としてアジア、アフリカの植民地に押し寄せたナショナリズムの「最後の波」は、産業資本主義の偉業によってはじめて可能になった新しい型の地球的帝国主義への反応として発生したものであった。資本主義はまた、印刷出版の普及その他によって、ヨーロッパにおいては俗語にもとづく民衆的ナショナリズムの創造を助け、そしてこうした民衆的ナショナリズムは、その程度はさまざまであれ、伝来の王朝原理を掘り崩し、可能なかぎり王朝を国民へと帰化するように駆りたててもいった。ついで公定ナショナリズム――新しい国民的原理と古い王朝原理の溶接――は、便宜上「ロシア化」とも呼びうるものを、ヨーロッパ外の植民地にもたらした。・・・しかも国家は、資本主義と縦列になって、本国と植民地の両方において、その機能を増殖させていった。これらの諸力が一緒になって、国家と法人の官僚機構が要請する下級幹部の要請を一つの目的として、「ロシア化」学校制度が生み出された。中央集権化され標準化されたこれらの学校制度はまったく新しい巡礼の旅を創出し、この巡礼のローマとなったのは、典型的には、各植民地の首都であった。・・・