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第2インターナショナル

1889年、ドイツ社会民主党が中心になって結成された国際社会主義運動組織。第一次世界大戦で崩壊した。

 第1インターナショナルが1872年に活動を停止してから、国際労働運動社会主義運動の国際連帯の再建をめざす運動が続いていた。その間の世界的な工業化の進展により、労働者の数も増加し、資本主義の矛盾が高まったことで、労働組合運動も活発となり、各国での社会主義政党の結成も続いた。それらの動きを受け、マルクスの死(1883)後の社会主義運動を理論的に指導していたエンゲルスの肝いりで、1889年7月、ヨーロッパ・アメリカの19カ国の労働者代表によって第2インターナショナルが結成された。
 第2インターナショナルは各国の社会主義政党の連帯組織という性格が強く、その中心はドイツ社会民主党であった。労働組合も参加したが、政党との関係に否定的な労働組合主義をとる組合は、別に労働組合インターナショナルを結成した。第1インターナショナルでマルクス派と対立したアナーキズム勢力は排除された。
 第2インターナショナルは帝国主義段階での資本主義の矛盾を、国家の枠を越えた社会主義政党と労働者階級の連帯によって克服し、労働者の解放を実現する社会主義社会を目指した。しかし、第1インターナショナルの段階と異なり、各国かかえる植民地支配の利害が対立するなか、植民地の解放については各国の意見が対立するという問題を抱えるようになった。帝国主義間の戦争の危機が高まると、バルカン戦争などでは第2インターナショナルは明確な戦争反対の立場をとり、第一次世界大戦の勃発に対しても当初は反対したが、戦争が長期化する中、インターナショナル各国支部の中に祖国防衛のためには戦争もやむなしというナショナリズムと戦争容認の声が強まり、統一的な国際組織として維持できなくなり、1919年を最後に開催されなくなった。  → インターナショナル運動の段階的な違い

第一次世界大戦で崩壊

 しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発して国家間の対立が鮮明になると、各国の社会主義政党もそれぞれ自国の戦争を肯定する側に回ったり、戦争支持か反対かによって党が分裂し、第2インターナショナルは1914年の開戦とともに機能不全に陥り、崩壊した。 → コミンテルン(第3インターナショナル)
ツィンメルヴァルト会議 開戦間もない1915年9月、スイスのツィンメルヴァルトで、戦争に反対する左派社会主義者が会議を開催、この戦争は帝国主義戦争であると規定し、その勃発を防げなかった列強の軍事同盟による勢力均衡論を批判し、将来の戦争の阻止のためにはただ一つ、労働者階級が政治権力を獲得して資本主義的所有を廃止し、社会主義の勝利を実現させることが必要であるいう見解を出した。当時スイスに亡命していて会議に出席したレーニンは、ジノヴィエフと共に『社会主義と戦争』を著し、「帝国主義戦争の時期を内乱の時期の開始に転化せよ」と主張した。この会議が、大戦後の1919年に結成される第3インターナショナル(コミンテルン)の萌芽となった。<木畑洋一『国際体制の展開』世界史リブレット54 1997 山川出版社 p.24>
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