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東清鉄道/中東鉄道

1896年、清がロシアに与えた満州を横断する敷設権によって開設された鉄道。シベリア鉄道の支線として満州を横断する本線とハルビンから南下して旅順・大連に至る線が1903年開業。日露戦争で支線の長春以南を南満州鉄道として日本が営業権獲得。中華民国では中東鉄道という。その後ソ連、中国、日本が営業権をめぐって争い、満州事変以降の戦争となる。

 日清戦争後、1894年のニコライ2世の戴冠式に参列するためにロシアに赴いた李鴻章は、ロシアと中露密約を結んだとされる。その内容は、将来日本が中国・朝鮮への侵略を行うような場合は、中国とロシアは相互に援助すること、その代償として、1896年に中国はロシアに黒竜江・吉林省を通ってウラジヴォストークに連結する東清鉄道の敷設権を与えること、清は旅順・大連を他国に割譲しないことなどであった。これは1895年、ロシアが日本に対して三国干渉を行い、遼東半島が還付されたことへの見返りとして実現した。

ロシアの東アジア進出

 東清鉄道はシベリア鉄道チタから分岐し、満州地方の西北の満洲里から東南の綏芬河の間を横断してウラジヴォストークに達する本線と、中間のハルビンから遼東半島の旅順・大連を結ぶ南満州支線からなり、本線は1896年に露清密約によってロシアが敷設権を認められ、支線は1898年の列強による中国分割の際にロシアが遼東半島南部の租借権とともに敷設権を清に認めさせた。 → 中国の鉄道

日本の進出

 この後、日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約でロシアの遼東半島租借権を継承し、長春から旅順までの鉄道の営業と沿線の鉱山開発などを行う南満州鉄道会社を1906年に設立した。
 1924年、ソ連と奉天軍閥の張作霖の協定が成立し、中ソ共同経営となった。中華民国では東清鉄道は「中東鉄道」と言われるようになり、日本では「東支鉄道」と言うようになった。1927年、第一次国共合作が破れて国共分裂となると、ソ連と中国国民党の関係が悪化し、張学良は1929年、中東鉄道の利権の回収を図った。しかしこの中国とソ連の軍事衝突ではソ連軍が張学良軍を圧倒し、そのため中東鉄道の権益はソ連のものとなった。
 しかし、満州事変後に東北地方を制圧した日本が満州国を設立すると、1935年3月、ソ連と満州国で協定が成立し、ソ連は中東鉄道を満州国に売却した。中国政府はこれに抗議したが、売却は成立、これ以後は南満州鉄道(満鉄)の経営に入った。

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