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ポーツマス条約

1905年9月、日本とロシア間で締結した日露戦争の講和条約。アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介によりアメリカのポーツマスで行われた講和会議で妥協が成立した。ロシアでは戦争中に第一次ロシア革命が起こっており、講和を受け入れざるを得なかった。日本は韓国の保護権、遼東半島南部の租借権、南満州鉄道の経営権、南樺太の割譲などを獲得し、大陸進出を果たした。賠償金条項がなかったことから日本の民衆の中に日比谷焼き討ち事件という反対運動が起こった。

 日露戦争での日本海海戦の勝利を機に、日本はアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに仲介を要請、1905年8月、アメリカ合衆国のポーツマスで、日本の小村寿太郎(外相)とロシアのウィッテ(前蔵相)とのあいだで講和会議が開かれることとなった。日本は樺太の割譲など多くの要求を突きつけたが、巧みな世論操作と再戦を辞さないウィッテの巧みな交渉によって、妥協せざるを得なかった。1905年9月5日に締結されたポーツマス条約には日本の世論も不満が強く、代表団が帰国すると民衆が暴動を起こし、日比谷焼打ち事件が起こった。ウィッテは帰国後、初代首相に任命され第1次ロシア革命の政府側の中心人物として十月宣言を起草する。
 1905年9月5日、締結されたポーツマス条約で日本がロシアに認めさせた事項は最終的には次の通りであった。
  1. 日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。
  2. 日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。
  3. 日本の南満州の鉄道の利権を認める。
  4. 南樺太(北緯50度以南の樺太=サハリン)を日本に割譲する。
  5. 沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡する。

その後の日本権益

 当時の日本の首脳部、第一次桂太郎内閣の外務大臣小村寿太郎と、陸軍の最高実力者となった参謀総長山県有朋は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で獲得した日本の利権を確実なものにする必要を強く意識していた。それはロシアが力を回復し再び南下することを恐れたことと、日露戦争を仲介したアメリカが満州に注目して、鉄道敷設権や営業権の獲得を目指すようになっていたからだった。そこで小村外相はポーツマス条約締結の直後の9月9日にセオドア=ローズヴェルト大統領を訪ね、韓国保護国化と満州におけるドイツ権益の継承とをやり抜く決意であることを表明し、大統領の了解を得た。その上で帰国し、賠償金を獲得できなかったことに怒る民衆の日比谷焼き討ち事件に遭遇したが、実利を得たことに自信のある小村寿太郎は閣議に臨み、韓国の保護国化と満州の利権の継承のための交渉に入ることを閣議決定させた。閣議に基づき韓国には伊藤博文が特命全権として派遣されて第2次日韓協約を強制し、保護国化を実現し、清国には小村寿太郎自身が全権として乗り込んで、袁世凱等と交渉し、長期にわたる交渉の末、12月に「満州に関する日清条約」を締結してロシア権益の継承を清国に認めさせた。
 その後の日本権益の概要を示すと次のようになる。
  1. 韓国(大韓帝国)に対しては、日露戦争中の第1次日韓協約に続いて1906年に第2次日韓協約を締結して、韓国保護国化を進めた。
  2. 遼東半島南部は旅順・大連を含み、日本では関東州と称した。1906年、日本はこの租借地の統治のため関東都督府を置いた。第一次世界大戦で二十一カ条の要求を中国政府が認めたことで、1915年に租借権を99カ年に延長、1919年に関東都督府を、行政担当の関東庁と、軍事担当の関東軍に分離した。
  3. 南満州の鉄道の利権とは東清鉄道の支線、長春から南に下り旅順口までをいう。1906年、この鉄道を運用する南満州鉄道株式会社が設立された。アメリカは満州の鉄道利権への参入を要求し、満州鉄道中立化を要求、さらに中国側には満鉄並行線の建設などがはじまり、日米・日中対立の焦点となっていく。
  4. 樺太(ロシア名ではサハリン)は、1875年の樺太千島交換条約でロシア領となっていた。ここで日本領とされた北緯50°以南の南樺太は第二次世界大戦での日本敗戦まで続く。
  5. 沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権については、1907年に日露漁業協約を締結し、細目を定めた。
 これらのうち、清国から認められた利権は、1911年の辛亥革命で清朝が倒れたため中華民国に継承され、日中間の懸案事項となる。そして中国の混乱に乗じて日本の権益拡大の動きが強まり、1915年には日本は、第一次世界大戦でドイツ権益の継承を柱とする二十一カ条の要求を中国に提出し、さらにその拡張を図ろうとする。
 なお、ポーツマス条約は1917年に第2次ロシア革命でロマノフ朝を倒したソヴィエト政権によって一方的に破棄された。日本は1918年から革命に干渉してシベリア出兵をおこなった。そのとき、1920年にニコライエフスク事件で日本人が虐殺されたことを口実に、日本軍は北樺太を占領した。1922年にシベリアから撤兵した後も占領を続けたが、1925年に日ソ基本条約を締結してソ連を承認したことに伴って撤退した。同時にソ連もポーツマス条約の法的な効力を認めた。

日比谷焼打ち事件

 1905年9月、ポーツマス条約の調印をおえて帰国した小村寿太郎を迎えたのは激しい条約反対の国民運動だった。国民の不満は、大きな犠牲を払ってかつ取った勝利である(実質は痛み分けであったが、日本国民は勝利であると受け取っていた)にもかかわらず、賠償金がないなどの不利な内容についてであった。それを扇動したのは国家主義者であったが、日比谷公園で開かれた抗議集会は暴動と化し、首相官邸などの政府機関、政府系新聞社が襲撃され、交番は焼き討ちされた。政府は戒厳令を布いて暴動を鎮圧した。
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