冀東防共自治政府
1935年、日本の支那駐屯軍が進めた華北分離工作により、華北に成立した傀儡政権。日本の分離工作に中国側は対抗して冀察政務委員会をつくり、強い抗日運動が起きた。盧溝橋事件の後、1937年に冀東防共政府の保安隊が反乱を起こして日本人居留民などを虐殺した通州事件が起きた。日本軍は自治政府を通じてアヘンなどの密貿易を行い利益を得ていた。
冀東防共自治政府は、満州事変後、関東軍が中国本土の華北に勢力を伸ばすために華北分離工作の一環として1935年11月25日に、はじめ冀東防共自治委員会として設置した傀儡政権であり、親日派の中国人殷汝耕を主席とし、通州を首都とした。委員会は12月25日に冀東防共自治政府と改称された。その管轄は河北省東部一帯の23県に及び、人口約600万を統治する「自治政府」であったが、政権の各機関には日本人顧問がいてコントロールする、日本軍の傀儡政権であった。治安維持にあたる保安隊も編制され、関東軍の軍人が指導に当たった。このように冀東防共自治政府(略称冀東政権)は、満洲国と中国本土の緩衝地帯を統治する自治政府として設置されたが、冀察政権(国民政府系)および共産党の勢力を排除するを基本方針とした。
しかし、日本軍が冀東防共自治政府をコントロールして華北の安定を図ろうとした企図は、1937年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中間の軍事対立が再燃する中で、1937年7月29日に自治政府の首都通州で保安隊が反乱し、日本人居留民を虐殺、しかも政務長官殷汝耕を監禁するという通州事件が起こったことで失敗に終わった。この事件で責任者殷汝耕は辞任、自治政府はいったん崩壊し、8月9日に冀東政権秘書処長池宗墨を政務長官として河北省唐山に仮庁舎を移して再建された。しかし、日中戦争の本格的開始と共に実質的に自治政府としての機能を失った。
POINT 冀東と防共の意味 冀(き)は河北省の別称なので、「冀東(きとう)」とは河北省東部を意味する。なお、中国政府が対向して設けた「冀察政務委員会」の「察」は河北省の北に隣接するチャハル(察哈爾)省のこと。「防共」は共産党の浸透を防止する意味で、当時の日本軍が華北に軍事侵攻する口実は共産党軍の浸透を排除することに置かれた。
首都通州 その首都となった通州は、北京(当時は北平)の東方約20キロにあって、交通の要衝にあって日本人居留者も多かった。冀東防共自治政府の保安隊が治安にあたっていた。この保安隊は日本の統制下にある自治政府に所属したが、北京の中国軍との内通の恐れもあり日本軍も警戒していた。この保安隊が反乱を起こし、多数の日本人居留民を殺害したのが通州事件だった。
1935年6月、日本軍は華北に侵入して圧力を加え、支那駐屯軍司令官梅津美治郎と中国側の何応欽(かおうきん)との間で、梅津・何応欽協定を結んだ。中国軍は日本の要求を呑んで華北から撤退、すべての抗日運動を禁止することを約束した。さらに同月、内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」が成立した。これらによって華北の中国軍を排除した日本軍は、同年11月、非武装地帯に、殷汝耕を代表として、冀東防共自治政府を樹立させた。後に「冀東自治政府」と改称し、日本軍はさらに華北全域を分離させる工作を進めた。
殷汝耕 冀東防共自治委員会委員長、ついで自治政府主席となった殷汝耕(1889~1947)は、16歳で日本に渡り、第一高等学校予科から鹿児島の第七高等学校造士館、さらに早稲田大学政経学科に学んだ日本通だった。在日中に中国同盟会に加入し、黄興や孫文に従い、1916年に卒業の翌年、日本人女性と結婚した。1927年、蒋介石が北伐を開始すると殷汝耕は国民革命軍総司令部の通訳として参加、同年秋に蒋介石が下野して日本に渡ったときの通訳を務めた。その後も国民政府の駐日外交特派員として活動した。日本語を自由に話した殷汝耕は満州事変、熱河作戦、塘沽停戦協定と続く日本軍と国民政府の交渉で活躍し、日本側のの関係を深くしていった。このように殷汝耕は日本との関わりが深く、日本軍は冀東防共自治委員会委員長に指名したと思われるが、彼はもともと文官であったので、保安隊を掌握するのには力がなかった。殷汝耕は盧溝橋事件後の1937年7月、通州事件が起こり、反乱を起こした保安隊によって捕らえられ権力を失った。戦後、中国政府によって漢奸(日本に協力した人物)として処刑された。<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.80-83>
(*)冀察政務委員会は冀東防共自治委員会(後の政府)と似ているが、まったく別なもの。いずれも中国人が作った自治政権であるが、中国国民政府系の政権と日本の傀儡政権というはっきりした違いがある。
十二・九学生運動 日本による華北分離工作が進み、傀儡政権冀東防共自治政府が設置されたことに強く反発、また関東軍に妥協的な政権冀察政務委員会に対しても強い不信をもった。同1935年12月9日、北京の学生を中心とした抗議運動(十二・九学生運動)が起こった。「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止して一致して日本に抵抗せよ」、「華北自治に反対」などをかかげた学生の抗議の声は全土に広がり、その中から現在の中華人民共和国の国家が生まれた。市民・学生の中に盛り上がった抗日運動は、翌年の西安事件での蒋介石・国民党の方針転換をもたらし、1937年7月の盧溝橋事件から日中戦争が本格化したことで9月の第2次国共合作を実現させることとなる。
冀東政権は密貿易として入ってきた人絹や砂糖などに対し、検査と称して国民政府の関税率のおよぼ4分の1の特別税を設け、密輸業者はそれを冀東政権に支払い「合法化」した。この冀東密貿易による資金は冀東政権の財源となっただけでなく、関東軍にも横流しされていた。<広中一成『増補新版通州事件』2021 志学社選書 p.114-120>
密貿易と同時に冀東政権の重要な財源となっていたのがアヘン貿易だった。冀東から長城線をこえた熱河一帯はアヘンの産地であり、満洲国はアヘンを専売品として押さえ、消費である天津に送るルートを支那駐屯軍の配下にある輸送業者が輸送した。冀東政権ができると、殷汝耕はこのアヘン輸送を黙認し、冀東地区内の軍用道路を通じてアヘンが運ばれた。さらにアヘンから征西されるモルヒネを原料としたヘロインが公然と製造され、天津などに運ばれた。冀東密貿易、アヘン貿易が盛んになったことで、多くの日本人・韓国人の業者が首都通州などに移住し、活動するようになった。<広中一成『同上』p.121-124>
1936年2月、問題の多い冀東地区で、冀東防共自治政府は密貿易をコインすることによって課税収入を得ようと六カ所に査験所を開き(9月より昌黎、留守営、北戴河の三カ所)、査験料の名目で世紀の四分の一ほどに押さえた関税の徴収を開始した。その結果冀東地区を経由して華北各地に流入する貨物が激増し日本人を含む正規貿易は悪影響を受け、中国にとって最大の財政収入である関税収入を激減させた。この件はイギリスも問題視し、駐日公使が有田外相に冀東密輸を抗議したが、有田外相は中国関税が効率であることや収入が中央政府(南京)に独占されているため、地方政権に密輸取り締まりの熱意がないことを理由に反駁した。国民政府は5月、海関職員による取り締まりを強化、死刑を含む厳罰を科すこととした。冀察政府顧問宮脇賢之助によれば査験料収入は3~8月まで計545万元でああたが、本収入はすべて通州特務機関の監督のもとに置かれ、200万元は内モンゴル工作、200万元は保安隊費用として使われ、殷汝耕には機密費20万元が渡されたとおいう。いずれにせよ特務機関を中心にずさんな支出が行われていたことは間違いない。<臼井勝美『新版日中戦争』2000 中公新書 p.44,60>
1936年12月、西安事件が起こり、急速に抗日統一戦線形成への動きが出ると、翌年2月に成立した日本の林内閣の佐藤尚武外相は機敏に対応し、新たな対支実行策を作成、前任の広田弘毅外相の下で作られた冀察二省の分離策をあらため、「北支の分治を図り支那の内政を乱すおそれがある政治工作は行わない、つまり華北分離工作から転換する方針を打ち出した。しかし林内閣は5月に退陣、外相が広田が復帰すると、この佐藤案は葬られ、以前の対支積極工作路線が復活した。<臼井『前掲書』p.52-57>
盧溝橋事件の起こる前の1937年3月に、日本の日華貿易協会の財界人の面会に応じた蒋介石が開いた、懇談会において、河北省を無政府状態に導いた日本の行動を厳しく非難、冀東の公然たる密輸、横行する三白(銀、モルヒネ、砂糖)業、堂々たる賭博、特務機関の横暴などが次々と中国側出席者から糾弾された。強い印象を受けた日華貿易協会会長児玉謙次(前横浜正金銀行頭取)は帰国後、冀東政府と冀東密貿易を廃止しない限り、日中経済提携などは絶望と諦めるしかないと考えるに至った。<臼井『前掲書』p.60>
この事件はただちに日本の新聞各紙で報道され、「中国人による日本人虐殺事件」として大々的に取り上げられた。日本の新聞は、生き残った人々の話から中国人による残虐な集団殺戮としてキャンペーンを展開し、残虐な中国人にたいする報復を「暴支膺懲」(暴虐な支那人を懲らしめよ)という言葉で扇動した。現地では被害者に対する賠償などの解決策が進んだが、世論は中国に対する強硬姿勢を求める声が強まっていった。1937年8月13日には海軍が主導して第2次上海事変が起こり、そこからは支那事変(日華事変)と言われるようになったが、実質的な日中戦争が始まった。
通州事件後、冀東防共自治政府は唐山を首都に再建されたが、日中戦争の開始によって実質的な機能を失った。通州事件は日中間の紛争の現地解決の努力を困難とし、日本軍が居留民の保護が出来ず、民間人に多大な犠牲を出したことで、日本国内の戦争気運を一気に盛り上げ、全面的な日中対立への引き金となったと言える。
しかし、日本軍が冀東防共自治政府をコントロールして華北の安定を図ろうとした企図は、1937年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中間の軍事対立が再燃する中で、1937年7月29日に自治政府の首都通州で保安隊が反乱し、日本人居留民を虐殺、しかも政務長官殷汝耕を監禁するという通州事件が起こったことで失敗に終わった。この事件で責任者殷汝耕は辞任、自治政府はいったん崩壊し、8月9日に冀東政権秘書処長池宗墨を政務長官として河北省唐山に仮庁舎を移して再建された。しかし、日中戦争の本格的開始と共に実質的に自治政府としての機能を失った。
POINT 冀東と防共の意味 冀(き)は河北省の別称なので、「冀東(きとう)」とは河北省東部を意味する。なお、中国政府が対向して設けた「冀察政務委員会」の「察」は河北省の北に隣接するチャハル(察哈爾)省のこと。「防共」は共産党の浸透を防止する意味で、当時の日本軍が華北に軍事侵攻する口実は共産党軍の浸透を排除することに置かれた。
首都通州 その首都となった通州は、北京(当時は北平)の東方約20キロにあって、交通の要衝にあって日本人居留者も多かった。冀東防共自治政府の保安隊が治安にあたっていた。この保安隊は日本の統制下にある自治政府に所属したが、北京の中国軍との内通の恐れもあり日本軍も警戒していた。この保安隊が反乱を起こし、多数の日本人居留民を殺害したのが通州事件だった。
日本の華北分離工作
日本は満州国を成立させた後、1933年5月に満州事変の停戦協定として塘沽停戦協定を結び、満州国に隣接した地域を非武装地帯として勢力下に置いた。さらに、国民政府から分離し直接支配下に置くことを狙い、華北分離工作を進めた。1935年6月、日本軍は華北に侵入して圧力を加え、支那駐屯軍司令官梅津美治郎と中国側の何応欽(かおうきん)との間で、梅津・何応欽協定を結んだ。中国軍は日本の要求を呑んで華北から撤退、すべての抗日運動を禁止することを約束した。さらに同月、内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」が成立した。これらによって華北の中国軍を排除した日本軍は、同年11月、非武装地帯に、殷汝耕を代表として、冀東防共自治政府を樹立させた。後に「冀東自治政府」と改称し、日本軍はさらに華北全域を分離させる工作を進めた。
殷汝耕 冀東防共自治委員会委員長、ついで自治政府主席となった殷汝耕(1889~1947)は、16歳で日本に渡り、第一高等学校予科から鹿児島の第七高等学校造士館、さらに早稲田大学政経学科に学んだ日本通だった。在日中に中国同盟会に加入し、黄興や孫文に従い、1916年に卒業の翌年、日本人女性と結婚した。1927年、蒋介石が北伐を開始すると殷汝耕は国民革命軍総司令部の通訳として参加、同年秋に蒋介石が下野して日本に渡ったときの通訳を務めた。その後も国民政府の駐日外交特派員として活動した。日本語を自由に話した殷汝耕は満州事変、熱河作戦、塘沽停戦協定と続く日本軍と国民政府の交渉で活躍し、日本側のの関係を深くしていった。このように殷汝耕は日本との関わりが深く、日本軍は冀東防共自治委員会委員長に指名したと思われるが、彼はもともと文官であったので、保安隊を掌握するのには力がなかった。殷汝耕は盧溝橋事件後の1937年7月、通州事件が起こり、反乱を起こした保安隊によって捕らえられ権力を失った。戦後、中国政府によって漢奸(日本に協力した人物)として処刑された。<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.80-83>
冀察政務委員会(*)
国民政府は日本軍の肝いりで冀東防共自治委員会が作られたことに強く反発し、殷汝耕に逮捕令を出した。しかし殷汝耕は日本軍に守られる形で通州の自治政府の主席に収まった。さらに華北分離工作がこれ以上進まないように、2月18日、「冀察政務委員会」を設置した。冀察(きさつ)とは冀(河北省)と北方に隣接する察哈爾(チャハル)省のことで、国民政府の公認する自治政権として北京に設立された。首班となった宋哲元は、旧軍閥系の軍人であったので蒋介石との関係は必ずしも良好ではなかく関東軍との妥協を図る動きもあった。(*)冀察政務委員会は冀東防共自治委員会(後の政府)と似ているが、まったく別なもの。いずれも中国人が作った自治政権であるが、中国国民政府系の政権と日本の傀儡政権というはっきりした違いがある。
十二・九学生運動 日本による華北分離工作が進み、傀儡政権冀東防共自治政府が設置されたことに強く反発、また関東軍に妥協的な政権冀察政務委員会に対しても強い不信をもった。同1935年12月9日、北京の学生を中心とした抗議運動(十二・九学生運動)が起こった。「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止して一致して日本に抵抗せよ」、「華北自治に反対」などをかかげた学生の抗議の声は全土に広がり、その中から現在の中華人民共和国の国家が生まれた。市民・学生の中に盛り上がった抗日運動は、翌年の西安事件での蒋介石・国民党の方針転換をもたらし、1937年7月の盧溝橋事件から日中戦争が本格化したことで9月の第2次国共合作を実現させることとなる。
日本軍とアヘン政策
中国の東三省、熱河省一帯にはアヘンの吸飲とその栽培が行われていた。満州国はアヘンに対して厳禁ではなく漸次減少させていくという漸禁政策をとり、事実上吸飲を認め、さらにその生産販売を専売制として国家収入にあてようとした。日本軍が熱河省や内蒙古に支配権を拡大し、冀東防共自治政府を樹立したのもその地域がアヘンの生産地域であり、大きな利益を得られるからであった。この地のアヘンを精製して造ったヘロインなどの麻薬は天津や上海などで広く販売され、犠牲を多く出した。日本支配地におけるこのようなアヘン政策は、大戦後の東京裁判でも国家犯罪の一つとして裁かれることとなる。<江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 p.44-57>冀東政権の密貿易
冀東政権の財源として密貿易の利益があった。冀東密貿易とは、冀東政権の主力政策の一つで、渤海沿岸で操業していた密貿易業者から低率の輸入税を徴収して買い取り、密貿易品を中国国内に横流しして利益を上げた。密輸入品は日本製の人絹(人造絹糸)・砂糖・毛織物・雑貨などだった。中国政府は清朝以来の不平等条約の撤廃が大きな課題だったが、北伐の終了で国民政府の統一がなったことで、1928年のアメリカに始まり、最も遅れていた日本も1930年に関税自主権を回復に応じたので、関税を独自財源とする体制をようやく獲得していた。そこで中国政府はこれらの輸入品に高関税を課して財政の安定を図っていたが、日本政府は華北分離工作を進め、冀東政権に密貿易をやらせて中国の関税政策を妨害した。華北に緩衝地帯に冀東政権が設けられると密貿易の取り締まりが困難になっていった。<笠原十九司『通州事件』2022 高文研 p.105>冀東政権は密貿易として入ってきた人絹や砂糖などに対し、検査と称して国民政府の関税率のおよぼ4分の1の特別税を設け、密輸業者はそれを冀東政権に支払い「合法化」した。この冀東密貿易による資金は冀東政権の財源となっただけでなく、関東軍にも横流しされていた。<広中一成『増補新版通州事件』2021 志学社選書 p.114-120>
密貿易と同時に冀東政権の重要な財源となっていたのがアヘン貿易だった。冀東から長城線をこえた熱河一帯はアヘンの産地であり、満洲国はアヘンを専売品として押さえ、消費である天津に送るルートを支那駐屯軍の配下にある輸送業者が輸送した。冀東政権ができると、殷汝耕はこのアヘン輸送を黙認し、冀東地区内の軍用道路を通じてアヘンが運ばれた。さらにアヘンから征西されるモルヒネを原料としたヘロインが公然と製造され、天津などに運ばれた。冀東密貿易、アヘン貿易が盛んになったことで、多くの日本人・韓国人の業者が首都通州などに移住し、活動するようになった。<広中一成『同上』p.121-124>
1936年2月、問題の多い冀東地区で、冀東防共自治政府は密貿易をコインすることによって課税収入を得ようと六カ所に査験所を開き(9月より昌黎、留守営、北戴河の三カ所)、査験料の名目で世紀の四分の一ほどに押さえた関税の徴収を開始した。その結果冀東地区を経由して華北各地に流入する貨物が激増し日本人を含む正規貿易は悪影響を受け、中国にとって最大の財政収入である関税収入を激減させた。この件はイギリスも問題視し、駐日公使が有田外相に冀東密輸を抗議したが、有田外相は中国関税が効率であることや収入が中央政府(南京)に独占されているため、地方政権に密輸取り締まりの熱意がないことを理由に反駁した。国民政府は5月、海関職員による取り締まりを強化、死刑を含む厳罰を科すこととした。冀察政府顧問宮脇賢之助によれば査験料収入は3~8月まで計545万元でああたが、本収入はすべて通州特務機関の監督のもとに置かれ、200万元は内モンゴル工作、200万元は保安隊費用として使われ、殷汝耕には機密費20万元が渡されたとおいう。いずれにせよ特務機関を中心にずさんな支出が行われていたことは間違いない。<臼井勝美『新版日中戦争』2000 中公新書 p.44,60>
1936年12月、西安事件が起こり、急速に抗日統一戦線形成への動きが出ると、翌年2月に成立した日本の林内閣の佐藤尚武外相は機敏に対応し、新たな対支実行策を作成、前任の広田弘毅外相の下で作られた冀察二省の分離策をあらため、「北支の分治を図り支那の内政を乱すおそれがある政治工作は行わない、つまり華北分離工作から転換する方針を打ち出した。しかし林内閣は5月に退陣、外相が広田が復帰すると、この佐藤案は葬られ、以前の対支積極工作路線が復活した。<臼井『前掲書』p.52-57>
盧溝橋事件の起こる前の1937年3月に、日本の日華貿易協会の財界人の面会に応じた蒋介石が開いた、懇談会において、河北省を無政府状態に導いた日本の行動を厳しく非難、冀東の公然たる密輸、横行する三白(銀、モルヒネ、砂糖)業、堂々たる賭博、特務機関の横暴などが次々と中国側出席者から糾弾された。強い印象を受けた日華貿易協会会長児玉謙次(前横浜正金銀行頭取)は帰国後、冀東政府と冀東密貿易を廃止しない限り、日中経済提携などは絶望と諦めるしかないと考えるに至った。<臼井『前掲書』p.60>
通州事件
1937年7月29日、冀東自治政府の首都通州で通州事件が起こった。自治政府の保安隊が通州の日本軍守備隊を攻撃、さらに民間の居留民を襲撃し、無抵抗の女子も含めて200名以上を惨殺した事件であった。反乱は7月7日の盧溝橋事件が、日本政府の不拡大方針にもかかわらず、日中両軍の衝突が続く中で、冀察政権(国民政府系)と内通した保安隊が各地で起こした抗日戦の一つであったが、日本人避難民が多かった自治政府の首都通州では、日本軍が北平(北京)方面に出動していたために守備が手薄だったために被害が拡大した。翌7月30日、日本軍は通州に戻り、反乱軍を排除して通州の治安を回復したが、自治政府主席殷汝耕は反乱軍に捕らえたため自治政府は機能を喪失した。この事件はただちに日本の新聞各紙で報道され、「中国人による日本人虐殺事件」として大々的に取り上げられた。日本の新聞は、生き残った人々の話から中国人による残虐な集団殺戮としてキャンペーンを展開し、残虐な中国人にたいする報復を「暴支膺懲」(暴虐な支那人を懲らしめよ)という言葉で扇動した。現地では被害者に対する賠償などの解決策が進んだが、世論は中国に対する強硬姿勢を求める声が強まっていった。1937年8月13日には海軍が主導して第2次上海事変が起こり、そこからは支那事変(日華事変)と言われるようになったが、実質的な日中戦争が始まった。
通州事件後、冀東防共自治政府は唐山を首都に再建されたが、日中戦争の開始によって実質的な機能を失った。通州事件は日中間の紛争の現地解決の努力を困難とし、日本軍が居留民の保護が出来ず、民間人に多大な犠牲を出したことで、日本国内の戦争気運を一気に盛り上げ、全面的な日中対立への引き金となったと言える。