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十二・九学生運動

1935年の日本の華北分離工作に反発した中国民衆の反日運動。この時歌われた義勇軍行進曲が現在の国歌となった。

華北分離工作に対する反対運動

 日本軍が満州国に隣接する華北の広大な国土に進出し、華北分離工作を進めたのに対し、中国の南京にあった国民政府が抵抗せず、1935年に梅津・何応欽協定では河北省の中国軍の撤退を承認し、さらに傀儡政権である冀東防共自治政府の成立を許すなど、妥協的な姿勢をとった。
 それにたいして、中国国民の中に反日および反国民政府感情がさらに高まり、1935年12月9日、北平(現在の北京)で学生を中心とした大規模なデモが行われた。

内戦停止の声が高まる

 北平でのデモは国民党軍と警察に鎮圧されたが、十二・九学生運動といわれ、中国共産党はすでに同年8月の八・一宣言で抗日民族統一戦線戦線の結成を呼びかけていたので、積極的に運動を指導し、全国に展開された。運動は「日本帝国主義打倒」、「内戦を停止して一致して日本に抵抗せよ」、「華北自治に反対」などのスローガンが掲げられ、全国に広がった。
 中国国民党の蔣介石政権は、日本軍に対する抵抗よりも、中国共産党との内戦に力を注ぐ安内攘外ー内戦を終えてから害敵に当たるーという基本線をすてなかったが、国内の内戦を止めて一致して抗日にあたれという声はますますが強くなり、翌1936年12月の西安事件の背景となる。

Episode 中国国歌、義勇軍行進曲が生まれる。

 十二・九学生運動の時、学生たちが声をそろえて歌った歌があった。「起て!奴隷となることを望まぬ人々よ。われらの血潮をもって新たな長城を築こう・・・」。この曲の題名は「義勇軍行進曲」といい、ほかならぬ現在の中華人民共和国国歌である。作曲者は聶耳(ニエアル)といい、少数民族の母親をもつ昆明出身の若者だった。映画音楽をつくりながら共産党に入党、35年に『風雲児女』の主題歌としてこの歌を作った。映画は大ヒットが彼はその完成を見る前に国民政府の特務機関に追われて日本に亡命し、7月に藤沢の鵠沼海岸で遊泳中に事故死した。24歳だった。現在、鵠沼海岸には彼を記念した碑が造られている。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 中国の歴史10 講談社 p.332>
聶耳の来日 現在の中国の国歌とされている義勇軍行進曲を作曲した聶耳は、1935年(昭和10年)7月17日、藤沢の鵠沼海岸で海水浴中に溺れて亡くなった。現場は引地川の河口で海底地形が複雑で波が高い。その死は事故死を疑う余地はない。事件性はないと考えられる。24歳の聶耳はそのわずか3ヶ月前の4月に来日した。それは上海での国民党政権による左翼運動への弾圧を避けるための「亡命」とも言われることもあるが、行き先に日本を選んだのは、日本への憧れが強く、元々日本留学を希望していたためとも指摘されている。彼の意識は「留学」であり、わずかな日数の間の日本での生活ぶりを多くの手紙で中国の友人や故郷の昆明の家族に知らせている。日本にやってきた聶耳は神田神保町で友人の留学生の下宿に転がり込み留学生活を始めた。友人に宛てた手紙には次のように書かれている。
(引用)この一ヶ月というもの、音楽会通いの毎日です。日本の音楽会の活発なことは、まったく驚くばかりです(むろん中国に比べてのことですが)。特に春というこの季節は、演奏会がない日というものがないほどであり、時には日に二つも三つも開催されています。・・・日本人の家に下宿しているので、会話の機会も多くなります。・・・<久保亨『日本で生まれた中国国歌』シリーズ日本の中の世界史 2019 岩波書店 p.210>
 当時中国本土での日中関係は悪化の一途をたどっていたが、その日本で若い聶耳はさかんに音楽文化を吸収し、日本人と会話をしようと試みていた。久保氏の著作は聶耳らの活動を通して日中関係の原点を問うている。
聶耳記念碑

聶耳記念碑 藤沢・鵠沼海岸

聶耳の記念碑 戦後途絶えていた二中関係も正常化し、聶耳の死後50年たって藤沢市民の中からその記念碑を建設しようという運動が持ち上がり、1986年に事故のあった鵠沼海岸引地川河口につくられた。海岸の海水浴のざわめきをよそに、今もひっそりと記念碑は残されている。しかし、石碑はビニールで全面が覆われており、直に触れることはできない。中国国歌の作詞家を顕彰する石碑を喜ばない人々によって、ペンキがかけられたりすることが予想されるからだろう。引地川河口には、今も遊泳注意の看板が立っている。聶耳がつくった曲がその意思とは関係なく中国国歌になったことはさておいて、この海辺で不慮の死を遂げた中国の若い音楽家がいたことを、自然に思い出し、悼むことができるようにしたいものだ。