華北分離工作
1935年に強まった満州に隣接する華北地方を中国政府から分離させる日本の動き。冀東防共自治政府が成立したが、中国国内で強い反対運動が起こった。さらに日本軍の中国本土への侵攻は、1937年の日中戦争をもたらした。
満州国と華北5州
『図説・日中戦争』p.4地図に加筆
1931年の満州事変を契機に32年に満州国が成立したが、反日運動が強まり、労働力不足などによる満州国経済の不振もあって、特に現地軍である関東軍ははさらに権益を拡大することが必要であると考えるようになった。そこで、満州国に隣接する、華北5省の河北省・チャハル省・綏遠省・山西省・山東省を中国政府から分離させて傀儡政権を造り、日本が実質支配するという、満州国の拡大版をつくることを狙った。この地域は黄河流域を含みしかも河北省には北平(現在の北京。1928年に改称している)も含まれるので、中国の中枢部と言って良い地域であった。
日本の華北進出
熱河侵攻 1933年、おりから満州事変を日本の侵略行為であるとした中国政府の訴えを受けて国際連盟において審議が行われていた。関東軍はそのような国際的な動きを無視する形で、1933年2月23日に熱河作戦を開始、山海関を占領し、さらに一部は万里の長城を越えて中国本土に入った。それに対し蔣介石は対共産党作戦(囲剿作戦)を優先し、関東軍との戦いを張学良の東北軍に任せていたものの、東北軍は相次いで敗れ、日本軍が北京に迫るという事態となった。塘沽停戦協定 蒋介石はひとまず日本軍の進撃を食い止めるため、停戦に踏み切り1933年5月31日、塘沽停戦協定の締結に応じた。これによって事実上、中国は満州国を認め、非武装地帯の統治権を失った。非武装地帯から関東軍は撤退したが、なおも抗日運動が続いたことを口実に、関東軍は華北一帯を中国政府から分離させ、自治政府を樹立するという形で実質的に支配することをめざすようになった。
支那駐屯軍 日本には関東軍と別に支那駐屯軍を有していた。支那駐屯軍とは、義和団事件(北清事変)の時の北京議定書で北京・天津間に駐留が認められた日本軍で天津に司令部を置いていた。日本の華北分離工作はこの軍によって進められた。一方、満州駐屯の関東軍は長城以北の内蒙古に第二の満州国の建設を進めていたが、こちらは内蒙工作という。
梅津・何応欽協定
1935年5月、日本の支那駐屯軍は塘沽停戦協定によって非武装とされた華北にいて、匪賊(日本は抗日ゲリラをこう呼んだ)による武装抗日が頻発していることを理由に、支那駐屯軍司令官梅津美治郎は国民党政府の華北軍事責任者何応欽に対して同協定の履行を迫り、河北省での中国軍の撤退などを要求した。蔣介石は駐日大使を通じ直ちに日本の広田弘毅外相に抗議したが、広田外相は「これは塘沽停戦協定に関わる軍事事項であり、政府は関与しない」という態度で取り合わなかった。一国の外交方針も外務省ではなく現地の軍部が立ててしまうという、軍国主義外交の典型である。1935年6月、梅津・何応欽協定」が成立し中国側が要求を飲んで、中国軍は華北から撤退、すべての抗日運動は禁止された。ただし、中国側は何応欽は口頭で回答したが文書には署名していないので正式には成立していないと主張している。また同月、河北省の北の内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」(どいはら・しんとくじゅん)が成立した。冀東防共自治政府 これらの協定で華北から中国軍を排除することに成功した日本は、さらに華北5省に自治政府を作り、満州国と同様の間接統治を行うことで勢力圏に収めようと画策した。1935年11月、塘沽停戦協定で非武装地帯とされていた地域に、殷汝耕(いんじょこう。日本留学経験のある政治家)を代表として、冀東防共自治政府を樹立させた。これには22県人口約600万が参加し、南京の国民政府から離脱する声明を出したが、「自治政府」を名のるものの、実態は日本軍の傀儡政権であった。後に「冀東自治政府」と改称し、日本軍はさらに華北全域を分離させる工作を進めた。
冀察政務委員会 国民政府側では日本に妥協することでその進出を抑える親日派(中国では漢奸と言われる)が現れ、同12月、宋哲元が委員長となって「冀察政務委員会」を設立した。これは国民政府側が設置し、河北省(冀)とチャハル省(察)を統治する機関であるが、その委員は支那駐屯軍の了承で選ばれた。「親日政権」を装った特別の統治機関であり「完全な日本の傀儡政権よりはまし」だという判断だったのだろう。<森山康平『図説日中戦争』2000 河出書房新社 ふくろうの本 などによる>
抗日運動の活発化
これに対して北京の学生が抗議に立ち上がり、同1935年年12月9日に十二・九学生運動が起こった。すでに同年8月1日の八・一宣言で抗日民族統一戦線の結成を呼びかけていた中国共産党が指導し、運動は全国に広がり、「日本帝国主義打倒」「何梅協定(梅津・何応欽協定のこと)廃棄」「冀察政務委員会反対」のスローガンが掲げられた。このような抗日運動の盛り上がりを実感した東北軍の張学良は、1936年12月に西安事件で蔣介石を監禁し、強く内戦の停止を迫り、合意させることになる。盧溝橋事件の前触れ
このような中国の抗日運動の高まりに対し、日本国内では「驕慢な中国」から「満蒙の権益」を守るために「膺懲」(ようちょう。こらしめること)が必要だという世論が強まった。このような世論に応えるという口実で、日本の関東軍、および中国本土に駐留する支那派遣軍は軍事行動のチャンスをうかがっていた。そこに勃発したのが、1937年の盧溝橋事件であった。この事件を口実に日本軍の本格的中国侵略が始まり、日中戦争へと突入していくが、その前提として華北分離工作などの日本の謀略があり、それに対する反対運動が激化していたのだった。