安重根/伊藤博文暗殺事件
義兵闘争に加わって日本軍と戦った後、1909年、満州のハルビンで前韓国統監伊藤博文を暗殺した韓国の独立運動家。翌年死刑となったが、韓国の抗日運動の英雄とされている。
韓国の切手に見る安重根
伊藤博文はなぜハルビンにいたか
ハルビンはいわゆる満州のほぼ中央、東清鉄道と南満州鉄道の交差する重要都市である。なぜ伊藤博文がそこにいたのか。伊藤はこの年5月、韓国統監を辞任し、枢密院議長に就任していた。統監を辞したのは、朝鮮統治の道筋をつけたという自負だけでなく、政府の朝鮮統治策の変化、つまり保護国支配策から併合による直接統治策に転換したことによる。伊藤は初代統監として強引に保護国化を図ってきたが、あくまで韓国の独立を維持したまま、保護国として統治するという考えだった。それに対して義兵闘争の続くのは伊藤の策が甘いからだという批判が起こっていた。桂太郎、小村寿太郎らはその考えに立ち、伊藤を説得した。その結果、伊藤も政策を転換することに同意し、1909年1月、韓国併合方針を決定した。それによって伊藤は辞任し枢密院議長に就任した。伊藤の構想は次の目標に向かっていたのである。それは、満州に対する関心であり、朝鮮併合の後の満州経営の可能性を探るため、視察旅行に行くこととなった。そのときちょうどロシアの大蔵大臣ココツェフが東清鉄道視察のためにハルビンに来るという情報が入った。そこで伊藤はハルビンでココツェフと会談し、ロシアの動向を探ろうとした。これが伊藤のハルビン行きの理由だった。伊藤博文暗殺事件
安重根は背中から腰にかけて、北斗七星のような七つのほくろがあるので、通称を應七(ウンチル)といった。もとは猟師だったようだが、カトリック信者であった。義兵闘争に加わり、各地で転戦するうちに追われて豆満江を超え、ロシア領の沿海州に逃れ、抵抗を続けていた。その苦しい戦いの中から、日本の朝鮮侵略の元凶が統監の伊藤博文だと考えるようになり、仲間とその殺害を誓い合った。そのとき薬指を切り落とし、その血で太極旗に「大韓独立」の4字を書いて誓ったので「断指同盟」と呼んだという。彼はウラジヴォストークで伊藤がハルビンに来ることを知り、東清鉄道でハルビンに入り、駅のホームで一人、列車を待った。伊藤の一行が到着し、軍楽隊の演奏する中、出迎えのココツェフと握手を交わした。安重根は伊藤の顔は新聞で知っていたが、白い髭を蓄えた小柄な男が伊藤に間違いないと確信し、整列しているロシア兵をかき分けて進み出て、3発立て続けに発射した。3弾とも伊藤に命中し、30分後には息を引き取った。安重根は「大韓国万歳!」と叫んだがロシア兵に取り押さえられた。安重根の裁判
後に日本軍に引き渡され、旅順に送られ、獄中で裁判を待つ間、伊藤の罪状を15条にわたって書き上げ、裁判官に提出した。その第1条は閔妃暗殺、第2条は第2次日韓協約の強制、第3条はハーグ密使事件で高宗を譲位させたことと続き、後は統監としての利権の奪取、日本の通貨の強制、言論の弾圧などに及んでいた。翌年2月から旅順で始まった公判では日本人の裁判官、弁護士で審理され、そこでも安重根は伊藤の罪状を告発した。日本政府は裁判所に圧力をかけ、極刑を求めた。おもしろいのは弁護人で、一人は日本の法律ではなく大韓帝国の法律で裁くべきことを主張し、一人は伊藤博文も若い頃勤王の志士としてイギリス公使館焼き討ちなどずいぶん荒っぽいことをやったのだから、若気の至りとして情状酌量して良いと主張した。しかしこれらの弁護は効果がなく、死刑判決となり、3月26日に執行された。26日は伊藤の命日であり、死刑執行時刻も午前10時という伊藤が絶命した時刻に合わせて執行された。安重根は書をよくし、その気迫のこもった遺墨は監獄の看守らに残されたという。<片野次雄『李朝滅亡』1994 新潮社 現在は新潮文庫>