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旅順/大連

1898年、ロシアが清から租借した遼東半島南端の軍港(旅順)と商業港(大連)。日露戦争で日本が租借権を継承、関東州と称して南満州鉄道の起点とした。1915年、二十一カ条要求で租借権を99年間延長を認めさせ、1919年から駐屯する部隊を関東軍と称して支配した。満州事変後、関東軍は満州全域に支配を広げ、1932年に満州国を建国したが、旅順・大連はそのまま租借地・関東州として続いた。大戦末期、ヤルタ秘密協定でソ連の権益が保障され、中ソ友好同盟条約(国民政府とソ連の条約)でソ連軍が権益を獲得、中華人民共和国成立後も中ソ友好同盟相互援助条約でソ連の駐留がつづいたが、1955年に中国に返還された。

現在の大連・旅順(大連市) GoogleMap

遼東半島南部の最先端に位置する港が旅順。その東に位置するのが大連。現在は大連が商工業の発達した大都市であり、旅順はその郊外の港となっている。いずれも渤海湾の入口を制する重要な位置にある。また、遼東半島は現在の中国の東北地方にあたる、一般に満州(満洲)と言われる地域とつながっていることから、南満洲とも言われた。
旅順 1878年に清の李鴻章が北洋艦隊の軍港としてから、遼東半島の南端の良港として知られるようになり、日清戦争の際、日本軍が占領した。このとき日本軍は旅順の市民を多数殺害し、外国の新聞がそれを報じて、世界的な非難を浴びる事件が起こっている。下関条約で遼東半島は日本割譲されたが三国干渉で清に還付された。ロシアは不凍港として獲得を狙い、1898年に大連とともに租借し、軍港を築いた。日露戦争で激戦地となり1905年、租借権を日本が継承し、関東庁を置いて満州進出の拠点とした。1919年には関東軍司令部が置かれた。日中戦争末期に大連とともにソ連軍が進駐、1955年に中国に返還されたが軍港であったため、外国人は立ち入れない閉鎖都市とされていた。2009年に開放され、現在は大連市の一部、旅順口区となっている。
大連 もともとは青泥窪という小さな漁村に過ぎなかったが、アロー戦争の時、1860年に英仏軍が上陸して占拠、日清戦争では日本軍が上陸し、遼東半島の要地として重要視されるようになった。1898年にこの地を租借したロシアはダルニーと命名し、1905年に日本が租借権を継承したときに、ダルニーに近い漢字を当てて「大連」と改名した(つまり20世紀になってからの地名である)。戦後、ソ連の管理下から1951年に中国に返還され旅大市となり、1981年から現在の大連市に戻った。現在も中国有数の商業港として繁栄している。

ロシアの租借地となる

 下関条約で旅順・大連を含む遼東半島は日本に割譲されることとなったが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、清に還付された。その後ロシアは、三国干渉の見返りとして東清鉄道敷設権を獲得、満州方面に進出し、さらに1898年の列強の中国分割の中で、1898年3月に旅順と大連を併せて租借することに成功した。ロシアは日本海に面してウラジヴォストーク港を建設していたが、旅順に要塞を築き日本との戦いに備え極東艦隊の基地とし、大連を商業港として開発し、東アジアから太平洋方面の侵出をはかった。また東清鉄道の中間点のハルビンから大連への鉄道として南満支線の敷設権も認められた。日本では、下関条約でいったん日本領となった遼東半島を、ロシアが勢力圏としたことに強い反発が起こった。列強は1900年義和団事件を共同出兵して抑えたものの、ロシアはそのまま満州に居座る形となったため、イギリスと日本はロシアを警戒することで利害が一致し、1902年日英同盟を締結した。

日露戦争

 日露戦争では日本軍が旅順を155日間にわたる激戦の末に占領した。その結果、1905年9月にポーツマス条約によって日本は遼東半島南部(旅順・大連)の租借権と、南満州鉄道の利権をロシアから継承することとなった。日本はそれを清国に認めさせようと交渉に入ったが、清の抵抗で交渉は難航、ようやく同年12月に「満州に関する日清条約」が締結され、日本がロシア権益を継承することを清国に認めさせた。
 遼東半島南部の旅順・大連を含む地域を関東州として統治することとなり、初めは関東総督府を置いてその指揮を受ける軍隊を駐留させ、満鉄沿線も含めて守備にあたらせた。その後、民政と軍政の関係は対立関係も含めて複雑な経過を採ったが、1919年に関東軍が設置されて旅順にその司令部が置かれ、南満州鉄道とともに日本の大陸侵出の足場とした。

二十一カ条要求

 第一次世界大戦勃発に際し、日本は1915年に二十一カ条の要求を中国政府に対し強制し、大部分について1915年5月9日に受諾させた。民衆の強い反対運動が起こったものの、さらに5月25日には日中間で「南満洲及び東部内蒙古に関する条約」を締結し、中で旅順・大連の租借と南満州鉄道の経営権の期限を99ヵ年に延長することなどをみとめさせた。なおこのとき、「山東に関する条約」で日本の山東半島のドイツ権益継承が認められた。 → 満州 東三省
ワシントン会議 その後、第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議で中国は二十一カ条要求の廃棄を主張したが入れられず、国内で五・四運動が起こった。アメリカも日本の中国市場への進出を警戒して、1921年にワシントン会議を召集して、中国に関する九カ国条約を締結、日本も受け入れた。中国とは個別に山東に関する条約を結んで山東半島の権益は返還した。

旅大回収運動

 しかし、日本は日露戦争で獲得した旅順・大連など遼東半島(関東州)の権益は放棄せず、租借期限は99年間延長されていた。それに対して中国政府は二十一カ条要求に対する国際的な批判が強まっていることを受けて、1923年に旅順・大連の回収を日本に要求した。日本がそれを拒否すると旅大(旅順と大連のこと)回収運動が国民運動として高まりを見せた。しかし、中国の政情は安徽派(段祺瑞)と直隷派(曹錕・呉佩孚)などの軍閥が抗争して安定せず、回収運動は実を結ばなかった。ただ、日本国内で少数意見ながら、石橋湛山が『東洋経済新報』誌上で「国民的自覚」をもった中国に、旅大を返還するのが「日本の将来」にって正しいと主張したことが注目される。<狭間直樹『世界の歴史27 自立に向かうアジア』1999 中央公論社 p.68>

第二次世界大戦後の旅順・大連

 第二次世界大戦中1945年2月のヤルタ会談で成立したヤルタ協定の秘密条項で、ソ連の旅順租借権の回復、大連に関する優越的地位が保障された。戦後、1945年8月14日にソ連と中華民国政府の中ソ友好同盟条約でそれが認められ、ソ連は30年間の自由港として使用することとなり、スターリンはソ連軍を駐留させた。
 その後もソ連軍の使用が続いたが、国共内戦によって国民党が破れ、1949年に中華人民共和国が成立すると、新政権は旅順・大連の返還をソ連に要求、それは中ソ間の課題となった。1950年2月、ほぼ中ソ友好同盟条約と同内容の中ソ友好同盟相互援助条約が締結されたためソ連の権益が続いたが、スターリンの死去後、フルシチョフ政権下の1955年にソ連軍は撤退し、中国に返還された。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.98>

Episode 大連の街

 大連の街は1898年、ロシアがダルニーと名付けて軍港を築いたのが始まりだった。1905年に日本が租借権を引き継いだとき、大連と変えられた。第二次世界大戦後にもソ連軍が駐留し、55年にようやく(というか初めて)中国のものとなった。このように大連はロシアが建設し、長くロシア人が住んでいたので独特の街作りをしている。戦前の大連で女学校時代をすごしたジャズピアニストの穐吉敏子さんは大連をこんな風に回想している。
(引用)……大連は確かに大都会、それもロシア人が都市設計をしたことが大きな理由だと思うが、ヨーロッパのにおいがプンプンしていた。車輪状というのだそうだが、広場があって、そこから放射状にいくつかの通りが出ており、その通りがまた別の広場にうながっている、という形だった。一番大きいのが大広場で、満鉄ビル、優雅な大和ホテル、銀行などがこの広場を囲んでいた。……<穐吉敏子『ジャズと生きる』1996 岩波新書 p.14>