新疆/新疆ウイグル自治区
清の乾隆帝がジュンガルとウイグル人を征服し、中国の西部に領土を広げて設置し、藩部に統括された。新しい領土、の意味。現在は中華人民共和国の新疆ウイグル自治区となっている。
新疆ウィルグル自治区
かつてはイラン系のソグド人が活動していたが、10世紀頃からトルコ系民族のウイグル人が定住し、いわゆるトルコ化が進んだ。
10世紀頃からこの地域にイスラーム教が浸透し、13世紀以降にこの地を征服したモンゴル帝国の後継国家チャガタイ=ハン国もイスラーム化した。特に14世紀にイスラーム神秘主義系のナクシュバンディー教団が中央アジアのブハラから東トルキスタン南部に進出して各地域にいくつかの教団を成立させたことによってウイグル人のイスラーム化が進んだ。17世紀には天山山脈北部のジュンガル盆地にいたモンゴル人のオイラト系であるジュンガルが族長ガルダンに率いられてタリム盆地・モンゴル高原、チベットに勢力を伸ばしていった。
新疆の成立
清朝は、康煕帝・雍正帝が相次いで北方のジュンガルに対する征討活動をおこなったが、乾隆帝はも1755年以来、ジュンガルに遠征軍を送り、1758年にその勢力を滅ぼした。ジュンガルに支配されていたウイグル人は、イスラーム教国を樹立する機会と捉えて反乱を起こしたが、康煕帝はウイグルの反乱も鎮圧し、1759年までに東トルキスタン一帯を「新疆」と称して支配するようになった。疆とは「領域」の意味で、清にとって新たな領土であったことを意味する。清はこの地を藩部の一つとして理藩院が統括した。ウイグル人のイスラーム社会
この地域に住むウイグル人はイスラーム教徒であった。清朝はウイグル社会に対して間接支配体制を敷き、ムスリムとしての日常的な信仰活動と宗教学者(ウラマー)の文化教育事業を認めたが、集団礼拝を禁止し、モスクやマドラサにワクフとして寄進された土地に対しても課税して、彼らが政治的・経済的に力を付けないようにした。清朝のウイグル人支配は巧妙にすすめられたが、19世紀になると、その宗教指導者のなかに、盛んに中国支配に対するジハードを呼びかけるものが現れ、清朝政府は度々軍隊を派遣しなければならなかった。1870年代には清朝は欧米列強による植民地下の危機にさらされると、新疆方面ではロシアの脅威が強まったので、直接支配に乗り出し、清朝の官吏の派遣や漢人の入植をすすめたので、ウイグル人の反発が強まった。
東トルキスタン独立運動
1917年のロシア革命は、中央アジアに大きな変化を及ぼし、民族独立の要求が強まった。すでに清朝は倒れていたので、東トルキスタンのウイグル人のなかにも独立は現実のものとなっていった。1930年代初期から、ウイグル族を中心に中国からの独立をめざす「東トルキスタン独立運動」が発生した。1933年11月の第1次東トルキスタン独立運動で、新疆南部のカシュガル市で「東トルキスタン=イスラーム共和国」が樹立されたが、内紛のためすぐに崩壊し、その後は漢人の軍閥盛世才が実権を握り、イスラーム教徒への弾圧を続けた。1944年にソ連に支援された「東トルキスタン共和国」が新疆北部のイリ市で樹立された。この場合も社会主義国家と同時にイスラーム信仰は民衆動員の道具として掲げられていた。
新疆ウイグル自治区
1949年に成立した中華人民共和国は、民族の独立を認めず、民族地域自治に止めようとし、1955年10月1日に「新疆ウイグル自治区」を設立した。自治区にはすでに1947年5月に成立した内モンゴル自治区があったが、新疆ウイグル自治区は中華人民共和国樹立後最初の自治区設立であった。次いで、58年に寧夏回族自治区と広西チワン族自治区が成立し、チベット反乱で遅れて、1965年にチベット自治区が作られた。以上の5自治区は、漢民族居住地域の省と同等の自治県を認められ、それぞれ自治行政府が置かれた。新疆ウイグル自治区の人口の3分の2を占めるウイグル人は、多くがイスラーム教徒で、かつてのオアシス都市から交易都市へと発展したその中心都市ウルムチには、多くのモスクが建てられ、漢民族とは異なった文化を有していた。ウイグル人のほかに、同じトルコ系民族でイスラーム教徒のカザフ人やキルギス人、ウズベク人なども少数ながら含まれている。 → 中国の少数民族
東トルキスタン独立運動の再発
新疆ウイグル自治区のなかの最大民族であるウイグル人は、一定の自治とイスラーム教の信仰の自由は認められたが、1930~40年代の独立の要求は達成されなかった。中国当局は、独立を認めない代わりに、自治区行政政府に対する手篤い経済支援などを通じて懐柔するとともに、散発する独立運動を軍事、警察力で抑えていた。しかし、1989年の東欧革命から始まった社会主義圏の民主化と民族国家の独立が進むと、その波は東トルキスタンにもおよび、特に1991年にソ連が解体して、隣接する中央アジア5ヵ国のトルコ系民族が独立を達成したことの影響を強く受け、1990年代に新疆ウイグル自治区でもウイグル人の独立を求める東トルキスタン独立運動が強まり、さらに国際的なイスラーム原理主義のテロ活動と結びついて過激化し、しばしば暴動やテロが起こるようになった。この問題はチベット問題とともに現在の中華人民共和国の抱える深厚な問題となっている。この動きを共通の脅威と受け取った中国・ロシアと中央アジア諸国は上海協力組織(SCO)を結成し、その取り締まりに共同歩調をとろうとしている。
新疆での中国の核実験
1964年10月の原爆実験、さらに1967年の水爆実験という中国の核実験は回を重ね、核保有国となったが、これらの中国の核実験のほとんどは新疆ロプノールの砂漠地帯で行われた。これには新疆ウィグル自治区の住民は強く反発している。また、核実験や原子力発電所から発生した核廃棄物は、人口密度が極端に少ないチベット自治区で処理され、「格のゴミ捨て場」にされている。チベット亡命政権のダライ=ラマはチベットの非核地帯化を強く求めている。新疆とチベットが核実験場、核廃棄物貯蔵庫とされていることが、自治区の中国への反発の理由の一つとなっている。