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インドネシアの民族運動

オランダ植民地支配を受ける中で、20世紀初めから民族の独立と統一を求める運動が始まる。組織的なものとしてはブディ=ウトモ、サレカット=イスラムがあり、共産党・国民党なども組織される。第二次世界大戦での日本の占領の後、スカルノらの指導でインドネシア共和国独立宣言を行うが、オランダが植民地支配を復活したため独立戦争となり、連邦制を経て、1950年に単一の共和国となって独立と統一をほぼ達成した。

 現在のインドネシアでは17世紀以来のオランダ領東インドとしてその植民地支配が続いていたが、特に19世紀には強制栽培制度のもとで農民に対する過酷な収奪が続いていた。それに対して20世紀に入るとマレー人の中に民族の独立と統一を求める声が強まってきた。先駆者的な人物としてはカルティニや「サミンの民」があるが、組織的な運動の最初は、1908年5月20日に結成されたブディ=ウトモと言われる文化運動団体に始まる。これはジャワ島の知識人の運動にとどまったが、次いで1911年にジャワ島の反華僑で結束した商人らが中心となって組織されたイスラーム同盟(サレカット=イスラム、正式発足は1912年9月10日)は、より大衆的な組織であり、オランダに対して自治を要求する政治団体へと成長していった。オランダ当局も民族運動が独立運動に転化することを警戒し、1912年にインドネシア人とオランダ人の混血者が結成した「東インド党」が初めて運動目標に独立を掲げると、翌年には強制的に解散させた。
インドネシア語の成立 1911年末ごろからインドネシア民族運動が活発になった要因は、運動の共通語としてムラユ語を用いたことだった。ムラユ語は群島間の交易・商業のための共通語であると同時にイスラームの布教用語として用いられていたもので、各地方のエスニック集団固有の言語(地方語)とは別に広い範囲で通じた。オランダも広大な支配領域の便宜のために、ムラユ語を凖公用語として用いた。イスラーム同盟はこのムラユ語を運動の用語として用いることで、エスニック集団の壁を乗り越え、東インド全体に活動を拡げることがのである。他の民族主義団体もムラユ語を用いたことで、これを民族の共通語とする意識が急速に定着し、「インドネシア」の概念の普及とともに「インドネシア語」となった。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社 p.11-12>
「インドネシア」の成立 イスラーム同盟と同時期に、ハッタ(後の初代副大統領)やスマントリなど東インド出身でオランダに留学した学生の親睦団体「東インド協会」を結成して、意識的に「東インド」にかえて「インドネシア」を用い始めた。1923年初め、彼らは「インドネシア協会」と改称し、植民地政府に対する非協力、インドネシア自身による独立を掲げ、機関紙『インドネシア・ムルデカ』(ムルデカは独立の意味)を発効した。彼らは留学から帰って「インドネシア」という概念を拡げ、やがてそれが独立に際しての新しい国名とされる。スカルノもその影響を強く受けていった。<鈴木恒之『同上書』 p.22>

オランダからの独立運動

 1920年代から、独立の主体としての民族名をインドネシア人と自覚するようになり、多くの民族主義運動が組織され、「多様のなかの統一」(ビネカ=トゥンガル=イカ)が共通のスローガンとして用いられるようになった。その運動の中心となったのは、インドネシア共産党であったが、1926年前後の武装蜂起に失敗した後、弾圧によって事実上地下に潜り、代わって1927年7月に、スカルノが中心となってインドネシア国民党が結成され、インドネシアの自由と統一を求める民族政党として活動を開始、民族独立運動の中心勢力となった。しかし、オランダ植民地当局はスカルノと国民党を厳しく弾圧、スカルノも逮捕、流刑となり、運動はしばらく停滞した。

日本の軍政

 1942年1月に東インドに侵攻した日本軍は、1942年3月1日にジャワ島に上陸、9日にオランが軍は降伏し、まもなく日本は東インドを三分割してインドネシアは日本の軍政下に置かれることとなった。日本軍に対し、民衆はオランダ植民地支配からの解放をもたらすとして歓迎、日本側も軍政を行う上で民族独立運動を利用しようとしてスカルノを解放した。スカルノも民族の独立を実現する機会と捉え、日本軍政に協力した。しかし、実際には日本の軍政は民衆に対する課税や徴発を強め、次第に反発を受けるようになり、各地で反日暴動も起こった。

インドネシアとの独立戦争

 第二次世界大戦で日本が敗北、日本の軍政が終わった直後、スカルノらが1945年8月17日インドネシア共和国が独立宣言を行った。
 しかし、オランダがまもなく植民地支配を復活させたのでインドネシア独立戦争となった。スカルノやハッタらが指導するインドネシアは苦しい戦いを強いられ、ようやく1949年11月2日、ハーグ協定によってインドネシア共和国とそれ以外の15の国からなるインドネシア連邦共和国という妥協が成立してオランダの植民地支配は終わった。その後、民族の統一を求める動きが急速に進み、1950年8月までにようやく単一の国家としてインドネシア共和国が成立した。

多様のなかの統一

 インドネシアの民族運動の多様性について、次のようなまとめが参考になる。
  1. 島々に分かれた種族の相違
  2. 水田農耕、焼畑農耕、海洋交易という生産様式の相違
  3. イスラームに対する態度の相違
  4. 社会主義を主とする近代的イデオロギーに対する態度の相違
  5. オランダに対する協調路線と対決路線の相違
などがあり、その相違の中に王族、原住民官僚(プリヤイ)層、富農、中農、貧農、手工業者などの階層分化が貫かれていた。インドネシアの民族運動はこれらの多様性を克服しながら、現在もその途上にあるといえる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.300>

スカルノの民族主義

 インドネシア民族運動の指導者スカルノは、1920年代から運動に加わり、40年代から指導的な立場に立ち、日本軍とも協力しながら独立の途を探り、戦後はオランダとの厳しい独立戦争を戦い、1950年に独立と統一を達成した。その一貫した運動の柱は熱烈な民族主義であったが、そのバックボーンとしてイスラーム教の信仰と、帝国主義との戦いの中である時期から近親感を抱くようになった共産主義であった。彼はその三つの思想的源流を融合させたナサコム(NASAKOM)体制をつくりあげ、60年代まで大統領として権威主義的な統治を行った。
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鈴木恒之『スカルノ
インドネシアの民族形成と国家建設』
世界史リブレット(人)92
2019 山川出版社』