スカルノ
インドネシアの独立運動家。オランダからの独立を目指し、インドネシア国民党を結成、日本占領時には日本軍に協力。1945年8月17日にインドネシア共和国の独立宣言を発し初代大統領となる。独立を認めないオランダとの独立戦争を指導、1950年にインドネシア共和国の単一国家化を達成した。世界ではAA会議、非同盟諸国首脳会議を開催し第三世界の指導者として活躍。国内では独裁体制維持のためナサコム体制をしいたが、共産党と軍の対立が深まり、1965年の九・三〇事件を機に権力を失い、67年にスハルト政権と交替した。
(1)民族独立運動の指導 戦前のスカルノ
民族独立運動へのかかわり
Sukarno 1901-1970
このころインドネシアの民族運動の最初の高揚を担ったイスラーム同盟は、労働運動などに力を入れるグループとイスラーム信仰を掲げるグループで分裂、前者は1921年にインドネシア共産党を結成、独立を掲げて戦い、そのため厳しく弾圧され、24年の武装蜂起に失敗して壊滅状態となった。26年、スカルノは技師の資格を得て卒業したが、国家の官職にはつかず、建設事務所を設立して、自ら民族主義運動に投じた。このころ、ハッタらオランダに留学していた青年は「東インド」に代わって「インドネシア」を意識して使うことを提唱し、イスラーム同盟が提唱した、東インドで交易やイスラームの布教に使われていたムラユ語を共通語「インドネシア語」にしようという運動も進み、スカルノはそれらに強い共感をおぼえ、民族独立運動の指導者となっていく。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社>
インドネシア国民党
スカルノは1927年7月、インドネシア国民党(厳密には27年にはインドネシア国民連盟と称し、翌28年に国民党を称する)を結成、その党首となり、インドネシアの独立をめざし、大同団結と植民地政府への非協力を主張して新たな民族主義運動のリーダーとなった。インドネシア国民党は西ジャワを中心とした中産階級が党員であったが、スカルノは他の民族主義団体との大同団結を進め、また巧みな演説で人々を魅了した。逮捕と流刑 そのようなスカルノを危険視したオランダ植民地当局は、1929年にスカルノらを逮捕したが、スカルノは裁判でも堂々とインドネシアの自由を主張し、出獄後は「スカルノ万歳」の声に迎えられた。国民党は31年に解散したが、スカルノはさらに活動を続け、1933年に再度逮捕され、フローレス島やベンクール島に流刑となる苦難の時期を過ごした。その流刑生活は42年2月の日本軍の東インド侵攻まで続く。
独立運動の闘士
度重なる逮捕、流刑がスカルノの独立運動闘士としての名声を高めた。演説能力に長けていたスカルノは、逮捕されたときの裁判で、レトリックを駆使して激しいオランダ批判をおこない、インドネシアの民衆を魅了した。カリスマ的な指導力を発揮したスカルノであったが、最も強く民衆に訴えたのは「インドネシア」としての国民意識の形成であった。1929年のインドネシア国民党がインドネシア青年会議を開催した際に出した「青年の誓い」では、「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」をスローガンとして訴え、強い支持を受けた。そのスローガンは独立を実現したインドネシア共和国の理念「多様性の中の統一」となって生かされることとなる。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.111-112>日本の軍政への協力
1942年1月から、日本軍はインドネシアに侵攻を開始、1月にカリマンタン、2月にスマトラを攻撃し、3月1日にジャワ島に上陸、9日にオランダ軍を降伏させた。それまで支配者として君臨していたオランダが、あっけなく降伏したことでインドネシア人は驚き、当初は日本軍を解放者として歓迎した。日本軍はスマトラ・マレー半島、ジャワ島、それ以外の島嶼の三地区に分けて軍政を開始した。ジャワ島を軍政下においた陸軍第16軍は、スマトラ島で監禁されていたスカルノを解放、7月9日、スカルノはジャカルタに戻り、第16軍の今村司令官と会い、軍政に協力することになった。スカルノは後に、日本軍政に協力した理由として、代償としてインドネシア独立を認められるという現実的な戦略と、反米英・反オランダという立場から日本軍に協力すると判断した、と述べている。スカルノはそのため、消極的対日協力を主張していたハッタらと話あい、民族主義の統一運動体として43年3月9日、「民衆総力結集運動」(インドネシア語の頭文字をとって putera プートラと言われた)を組織、日本も動員力への期待からその設立を認めた。しかし日本はプートラをなるべく関与させずに、インドネシア社会に青年団、警防団、婦人会、隣組などを組織して労働奉仕や軍事訓練に動員した。1944年3月には軍政はプートラに代わる新たな動員組織として「ジャワ奉公会」を組織し、戦争協力体制を強化し、労務者(インドネシアでもロームシャと言われた)の徴発を行った。スカルノはそれに協力し、自ら労務者徴募の先頭に立った。後にこの日本軍への協力を批判されたスカルノは、自伝で次のように弁明している。
(引用)私が日本人に彼らの望むものを与えるのは、私が必要とするより大きな譲歩を日本から得るためであり、それが独立に向かう積極的な方法なのだ。……もし千人を犠牲にして何百万人が助かるなら、私はそうする。われわれは生き抜くために戦っており、この国の指導者として私は傷つきやすい感情をもつようなぜいたくは許されないのだ。<鈴木恒之『前掲書』p.53 の引用するスカルノの自伝>太平洋戦争中のスカルノのこのような行動は、後にオランダや反スカルノ陣営から「対日協力者」、あるいは「帝国主義の傀儡」となったと厳しく非難されることとなる。
日本の独立承認
スカルノ・東条英機会談 1943年になると日本は戦争目的を大東亜共栄圏の実現にあるということを明確にする必要に迫られ、1月28日、東条首相は国会でビルマとフィリピンの独立を認めると演説し、その代償として「大東亜戦争」に参戦させた。しかしインドネシアには言及がなかった。そのうえで11月に大東亜会議を召集したが、インドネシアに対しては独立を認めていないので招集しなかった。日本側は不満を和らげるため、ジャワに中央参議院という議会を設置してスカルノを議長にするなどの手を打っていたが、それはあくまで軍政の補助機関に過ぎなかったので、スカルノは東条に対して強い不満を表明した。大東亜会議終了後、東条首相はスカルノとハッタらを東京に招き会談したが、そこでも東条首相の回答は変わらず、独立は認められなかった。東条首相がインドネシア独立を拒否した理由は、軍政を維持することで石油・ゴムなどの資源を直接利用することと、インドネシアには独立する能力は無い、と見ていたからであった。<後藤幹一・山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』2001 山川出版社 p.103-108に詳しい>小磯声明 しかし44年7月、サイパンの陥落、インパール作戦の失敗で東条首相が退陣すると、代わった小磯国昭内閣は、9月、「東インド」に「将来その独立を認めんとする」と表明した。時期は未定であることに不満は残ったが、スカルノはこの時、「しばらく涙を流し、声も出なかった」といわれる。彼はこの決定を、時には屈辱にたえながらなおおこなってきた努力が、誤りではなかった証しとして歓迎した。<鈴木恒之『前掲書』p.55>
建国五原則 独立に備えて独立準備委員会が発足し、スカルノもその委員となった。審議は難航したが45年5月には、スカルノが提唱した「建国五原則」(パンチャシラ)が、新たな国家理念として合意された。これはその解釈や順番をめぐって、その後も様々な論議を呼ぶことになるが、長くインドネシア国家の理念とされるもので、今日まで継続しており、これによって独立国家の骨格ができたと評価できる。
(2)第三世界の指導者 戦後のスカルノ
インドネシアの独立
1945年8月15日、日本軍の敗北が確定すると、一部の急進的な青年がスカルノとハッタに迫り、直後の1945年8月17日、インドネシア共和国独立宣言を発表した。その翌日には初代大統領に選出された。しかし、オランダが再び植民地支配に乗りだし、共和国はそれとの交渉という厳しい局面を迎えた。オランダはスカルノを日本軍国主義に屈してその傀儡政権となった「対日協力者」と断定して交渉から排除したため、共和国では首相となったシャフリルら、オランダ留学経験があり民主主義思想をもつ穏健派がオランダとの妥協を図りながら実質的独立を得ようとする姿勢を採った。それに対して共産党や民族主義者はオランダとの武力による闘争で独立を勝ち取ろうとして、内部対立が深刻になっていった。
これに乗じたオランダが、武力侵攻を開始したので、1947年からインドネシア独立戦争となった。大統領の地位にあったスカルノ自身がハッタとともにオランダ軍の捕虜になるほどの苦戦を強いられたが、国際連合の場での国際世論でオランダ非難が強まり、スカルノも共産党の武力蜂起に反対して弾圧する姿勢を採ったためにアメリカもインドネシアを支持し、ようやく国連の調停で1949年11月2日にハーグ協定が成立し、インドネシア連邦共和国を構成することとなった。スカルノはその中の一つのインドネシア共和国の初代大統領に改めて就任した。
これで植民地「オランダ領東インド」は消滅したが、ここでつくられたのはオランダがなおも影響力を残そうと、16ほどの共和国に分割してその連合国家としたものであった。しかし、他の共和国がスカルノを大統領とする共和国に次々と合併を表明し、結局すべてに及んだため、1950年8月17日に単独のインドネシア共和国となり、これで、かつての「東インド」のほぼすべてを含む地域(西イリアンの領有はこの時認められなかった)が「インドネシア」という統一国家として独立するというスカルノの念願は達成された。 → スカルノの時代
第三世界の指導者として活躍
AA会議開催 スカルノは1950年代から60年代にかけて、第三世界の指導者の一人として国際政治面で活動した。特に1955年4月にはインドネシアのバンドンで開催されたアジア=アフリカ会議では議長として活躍、インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセルらと並び、帝国主義と戦う指導者としての名声を獲得した。1961年には第1回非同盟諸国首脳会議をネルー、ティトー、ナセルとともに提唱した。1956年5月~10月、スカルノはアメリカ、ソ連、東欧、中国を歴訪した。そのとき、アメリカでは冷遇されたが、共産圏では大歓迎を受けた。特に中国では毛沢東と会談、中国共産党による社会主義建設に強く刺激され、共産党に対して好意をもつようになった。
「指導される民主主義」 国際政治では華々しく活躍したスカルノは、国際的には確固たる名声を得たが、実際の国内政治では国民に約束した「貧困からの解放」は進まず、多くの政党が乱立して混迷が続いていた。特に西イリアン併合問題や、国軍の地方部隊の反乱などもあって、副大統領ハッタの辞任など不安定な状況は政権を脅かしていた。そのためスカルノは自己の政権を支える新たな理念を模索し、独立後目指していた西洋型の議会制民主主義から大きく転換させた。それが、1956年10月に打ち出した「指導される民主主義」の理念である。それは、政党が競争して選挙で議員を選び、議会の多数決で物事を決めていくという政党制・議会制民主主義は国家に分裂をもたらすのみであるとして否定し、政党と議会ではなく家父長的な指導者によって指導される政治こそインドネシアに相応しいというものであった。
反スカルノの動き このようなスカルノの議会制民主主義否定に対しては当然、反発の声も起こり、ジャワ島以外のスマトラやスラウェシでも反スカルノの運動が興り、1957年11月末にはイスラーム過激派による爆弾テロが起き、58年2月には反対勢力は共和国革命政府を樹立した。それに対してスカルノは武力行使に踏み切った。アメリカはスカルノが共産圏に接近していることを警戒し、革命政府を支援したが、このアメリカの介入は返ってインドネシア人の反発を呼んで、流れはスカルノ政権支持に動き、反乱はまもなく鎮圧された。
ナサコム体制
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤にした独裁体制を確立しようとした。1959年7月5日に議会を解散、大統領権限が強い45年憲法を復活し、民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教政党)、共産主義(共産党)の三つの政党のみを認めた。この三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。これは政党という政治基盤を持たないスカルノが、そのカリスマ的指導力で難局を乗り切ろうとして打ち出した一種の権威主義体制と見ることができる。スカルノが偉大な指導者であることを国際社会と国民にアピールする場面は外交政策で現れ、オランダ領にとどまっていた西イリアンを併合すること、マレーシアの独立に際しボルネオの一部が含まれることに反対すること、の二点で帝国主義と戦う指導者として行動することとなる。
西イリアン問題 ニューギニア(パプア)島の西半分の西イリアンは東インドの一部であり、インドネシアは独立以来編入を主張していたが、オランダは頑なに拒み、インドネシアはたびたび国連に提訴していた。1961年、オランダが西イリアンの統治を国連に委ねる信託統治とする案を国連に提示すると、強く反発したスカルノは、西イリアン武力解放を呼号し、戒厳令を布いて臨戦態勢をとり、翌62年1月には小規模な衝突が起こった。結局、ソ連・中国の介入を恐れたアメリカが調停に入り、1962年8月にオランダ・インドネシア間の西イリアン協定が成立、63年5月にインドネシアに施政権を移管することで決着した。これによってスカルノの人気は最高潮に達し、西イリアンの施政権が移管された63年5月、暫定国民協議会(議会)から「終身大統領」の称号が送られた。
国連からの脱退 またスカルノは、1963年9月にマラヤ連邦がシンガポールと連邦国家を形成し、北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシアが成立しすると、イギリスを背景とした帝国主義的な領土再編であると反発して断交し、さらにマレーシアが国際連合非常任理事国に選出されると、それに抗議して1965年1月には国連を脱退した。これらの外交上の強硬姿勢は反帝国主義者としてのスカルノのぶれない姿勢を第三世界を中心とする国際社会に示すこととなり、国際的には人気を博した側面がある。この頃がスカルノの権力の絶頂期であった。
九・三〇事件で失脚
しかし、1965年9月に共産党系の軍人が起こしたクーデタを鎮圧することを口実に軍が政権を倒して実権を握るという九・三〇事件が起きると、一気にスカルノ体制は崩れていった。軍の実権を握ったスハルトは共産党弾圧を要求、共産党の提携を維持しようとするスカルノが拒否すると、イスラーム教徒や共産主義に反対する勢力を動員して、全国的な規模で共産党弾圧に乗りだし、それによって1965~67年にかけて、約50万以上(実際の数はつかめない)ともいわれる虐殺が行われた。スカルノにはそれを抑える力はすでになく、これによってナサコム体制が崩れ、軍を背景としたスハルトは、翌1966年3月11日にはスカルノに強要してその大統領権限を奪う「三・一一政変」で、事実上の政権交代が行われた。スカルノは名目的な大統領の地位にあったが、それも1968年に国民評議会で解任され、スハルトが第2代大統領となって終わりを告げた。このようにスカルノは九・三〇事件でただちにその地位を失ったのではなかったが、共産党が解体されたことでナサコム体制は崩壊し、事実上の失脚に追いこまれたといえる。幽閉状態にあったスカルノは、1970年6月21日に死去した。
代わって実権を握ったスハルトは、国是としてのパンチャシラを掲げるものの、ナサコムは放棄し、共産党を非合法化してスカルノの社会改革路線を否定し、さらに共産圏寄り・第三世界のリーダーと言った外交姿勢を改め、国際連合への復帰、アメリカ・日本との提携へと大きく舵を切った。間もなくその本質は独裁体制の下で経済成長をはかるという開発独裁にあることを明確にしていく。
参考 スカルノの夫人たち
スカルノの周辺には生涯、何人もの女性の存在が重要な意味をもっていた。最初の妻は私淑した民族運動指導者チョクロアミノトの娘で、スカルノ20歳、妻は15歳であったので形だけのものだった。21歳の時、11歳年上のインギットと結婚、彼女は20~30年代のスカルノの民族運動を、その流刑の時期も含めて、一身に支えた「姉さん女房」だった。ところが1943年、スカルノはスマトラ流刑地で知りあった23歳年下のファトマワティと恋に落ち、インギットを離婚して第一夫人に迎えた。ファトマワティは独立達成から国家建設期にスカルノを支え、初代大統領夫人となったので「国母」といわれ、陸軍とも強いつながりをもった。スカルノとファトマワティの娘が後にインドネシア大統領となるメガワティである。権力の絶頂に達そうという1953年、スカルノは東ジャワ出身のハルティニを第二夫人に迎えた。ファトマワティは強い不満をもち大統領官邸から出て行き、国民のなかにも同情する声が大きく、女性団体も抗議行動をくりかえした。スカルノはハルティニを大統領官邸に入れることができず、ボゴール宮殿を作ってそこに住まわせた。ハルティニはファトマワティの陸軍に対して共産党と近づき、スカルノに影響を与えた。
そして運命の日本女性根本七保子(1940年生まれ)の登場となる。このあたり週刊誌情報ではキャバレーでスカルノが見初めたといったイメージを持たれているが、実際にはかなり異なる。彼女が18歳で銀座の高級クラブ・コパカパーナの売れっ子ホステスだった(そこに至るまでの戦時下の苦労話は自伝に詳しい)ことはたしかだが、正確にはコパカパーナの客であった貿易会社社長の紹介で、1959年6月、帝国ホテルでの「お見合い」が最初だという。ともかくも彼女はスカルノの心をしっかりとらえ、早くも9月にジャカルタに飛び、郊外で大統領との逢瀬をもつようになる。正式に第三夫人ラトゥナ=サリ=デヴィとして結婚したのは62年3月のことで、やはり第一、第二夫人にはばかり、大統領官邸には入らず、ヤソオ宮殿(夫人の弟八會男の名による)を作ってそこに住んだ。スカルノは大統領官邸で執務した後、月~木はデヴィのいるヤソオ宮殿、金曜から週末はハルティニのいるボゴール宮殿で夜を過ごすした。この二つの場所で、さまざまな政治や経済がらみの交渉が行われるので、おのずとヤソオ派、ボゴール派といった色合いが生まれていく。
なお、イスラーム圏での一夫多妻制とは、夫が妻として養える場合は4人まで許される、というものだが、複数の妻を養うのは難しいから、実際にはほとんどない。また養うとともに夫人たちの同意も得なければならないので、スカルノような人でないとできない。デヴィ夫人の時は第一夫人はスカルノに愛想を尽かして出ていった(離婚はしていない)ので、そのライバルは第二夫人ハルティニだったが、回想記を読むとほとんど顔を合わせることはなかったようだ。ところがデヴィ夫人はやがて、スカルノに他にも女がいることを知ってしまい、ショックを受ける。このあたりはここで要約することでもないので、原著作にあたって下さい。
Episode 実はすごい、出川哲朗の相手役
デヴィ夫人についてはスカルノ夫人であったことは知っていても、1980~90年代のマスコミによる激しいバッシング、一転して2000年代からは美貌と特異なキャラを生かしたタレント、出川哲朗の相手役として大活躍、といった面しか知らない人がほとんどであろう。かくいう私もその一人であったが、インドネシアの九・三〇事件を調べているうちに、彼女が事件のカギを握る人物であることを知り、遅まきながらその自伝・回想記に眼を通した。そこには彼女の少女時代の戦争中の体験や暗かった家庭のことが率直に語られ、戦後の東京の有様が活写されていた。夜間高校で英語を話せるようにしたり、知識を身につけたり、演劇を楽しみながら社交界に憧れ、銀座の一流クラブで高給をとるようになって生活が一変。そして数々の恋をする。そのあたり、実名で書かれていて(特に回想記の方)面白いが、このあたりは世界史とは関係がないので紹介はしません。何と言っても第三夫人という権力の裏側に入った彼女が、ずかずかとスカルノやその他の要人に切り込み、渡り合うのが痛快ですごい。そこで当時のインドネシア政治の実態を、われわれも目の当たりにすることができるわけだ。彼女自身は否定しているが、日本の対インドネシア賠償にかかわるさまざまな事業に食い込もうという商社が、彼女を頼りにしたことは想像に難くない。回想記には日本の政治家も実名で出てくる。そのあたりも興味が尽きないが、さしあたっては九・三〇事件の前後のスカルノをめぐる動きの記述は、大げさに言えば世界史の一級資料かもしれない。その見方は一面的で正しくはないかもしれないが、ところどころで鋭い分析を見せている。もちろんゴーストライターはいるのだろうが、彼女しか知り得ない情報もあり、貴重な書物だと思う。デヴィ夫人の存在を出川哲朗の相手役でしかないと思っている方、インドネシアの歴史に疎い方、自伝か回想記のどちらかに眼を通してみて下さい。