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南洋諸島

第一次世界大戦で日本が占領、ヴェルサイユ条約で日本の委任統治領となった。

 南洋諸島とは広大な太平洋の南方に広がる、マリアナ諸島、カロリング諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島などの島々をいう。この海域には、ビスマルク時代末期のドイツが進出し、1885年、ニューギニア北東部を占拠して「カイザー・ヴィルヘルム・ラント」と名付け、さらにそこに隣接する諸島を「ビスマルク諸島」と名づけた。ドイツはこれらを保護領として事実上は植民地支配を行った。しかし、その支配はドイツが第一次世界大戦で敗れたため、長続きはしなかった。

日本の委任統治

 第一次世界大戦が始まると、日本は南太平洋におけるドイツ領(南洋諸島)に海軍を派遣し、1914年12月にトラック諸島に拠点を築き、実効支配を開始した。1917年にはイギリス、フランス、ロシア、イタリアと秘密裏に交渉して戦後の日本領併合の合意を得ていた。しかし大戦後のパリ講和会議が始まると、アメリカのウィルソン大統領は、日本の南洋諸島併合がアメリカ領のフィリピンを脅かすことになるので強く反対した。そこで、妥協的に出された委任統治とするという形式で最終的には妥協し、「赤道以北の南洋諸島」がそれに含まれることとなった。

ワシントン会議、四ヶ国条約締結へ

 委任統治とは言え、実質的に日本の植民地となったため、南洋諸島には多数の日本人が入植し、サトウキビの栽培と砂糖の生産などの産業を興した。これは、アメリカにとって国土の一部であるハワイと、植民地フィリピンとのあいだに事実上の日本植民地が割り込む形になるので、強く警戒した。またさらにアメリカが中国に進出していく場合、日本がイギリスと同盟していることは障害となる。そのため、アメリカは将来的な日本との衝突に備えて、日本海軍の軍備増強を抑え、中国大陸と太平洋地域での現状維持(日本がこれ以上勢力を伸ばさないこと)と日英同盟の破棄を日本に求めることとなった。そのために召集されたのがワシントン会議であった。
 1921年に開催されたワシントン会議では、太平洋に関しては四カ国条約が調印され、日米英仏の四ヵ国間で太平洋の現状維持が約束されるとともに日英同盟の破棄が決まった。アメリカ合衆国は国際連盟に加入していなかったが、1920年代の国際協調を主導し、ワシントン会議を成功させ、ワシントン体制と言われるヴェルサイユ体制のもとでのアジアの国際秩序を作ることに成功した。しかしそのねらいは、アジア進出に備えて日本の動きを制しておくというところにあった。日本はここでは国際協調を優先して、ほぼアメリカに従ったが、海軍軍縮での不利な取り決め、中国での山東半島の利権の放棄など、不満が残ることとなった。

太平洋戦争

 日米間の利害の対立は、長い目で見ればこのワシントン会議から始まっており、そこでの国際協調は結局、日本の急激な大陸進出路線の行きづまりから太平洋戦争へと突き進むことになった。
 1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開始されると、南洋諸島は日本軍の南半球への戦線拡大の中継基地となり、米軍の反撃が始まると、日本防衛の最前線として激戦地となった。1944年7月のサイパン陥落によって日本本土がアメリカ軍の空爆に晒されることとなり、1945年8月の日本敗戦となり、南洋諸島はアメリカ軍が占領することとなった。
 現在はマリアナ諸島はアメリカ領として続いているが、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオは独立国家となっている。

出題 東京大学平成31年 第二問

太平洋分割図 東大問題2019

地  図

 問(2)  太平洋諸地域は近代に入ると世界の一体化に組み込まれ、植民地支配の境界線が引かれた。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに答えよ。
(a) 地図中の太線で囲まれた諸島が、19世紀末から1920年代までにたどった経緯を二行以内で説明しなさい。
(b) ニュージーランドが1920~30年代に経験した、政治的な地位の変化について2行以内で説明しなさい。

解答(a)

解答(b)


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