青島
青島(チンタオ)は中国の山東半島、膠州湾の入り口にある港市。1898年、膠州湾を租借したドイツが軍港を建設した。第一次世界大戦に参戦した日本がドイツ軍要塞を攻撃、1914年11月に占領し、二十一ヶ条を承認させて山東半島ドイツ権益を継承した。中国民衆の反対運動、国際世論の反発もあり、1922年に返還したが、1937年日中戦争の勃発により日本が再び実効支配、1945年まで続いた。現在、中国有数の港湾都市として続いている。
ドイツの海軍基地建設
青島 GoogleMap
ドイツの租借地
1898年3月のドイツによる膠州湾の租借は、それに続くロシア、イギリス、フランスによる中国分割の最初だった。ヴィルヘルム2世のドイツは湾の入り口の青島(島ではない)をドイツ風の近代的港湾都市として新たに建設した。ドイツにとって遠く離れてはいるが、最も重要な海外拠点として実質的な植民地経営を開始した。ドイツが最も力を入れた海外植民地都市 膠州湾租借地を海軍省直轄とし、海軍将校を総督として総督府を青島に設けた。さらにドイツ政府は、巨費を投じて青島の要塞化を進め、イルチス・ビスマルク・モルトケという三つの丘に兵営を設け、二千人を超す将兵を駐留させた。さらに市内の丘という丘に砲台を設け、青島全域の軍事要塞化が進められた。<荻野純一他『青島と山東半島』旅名人ぶっくす 2007日経BP p.70>
ドイツ租借地時代の建物 1898年~1914年の17年間にすぎなかったドイツ租借地時代の青島であったが、現在もその時代に建設されたドイツ風の堅牢な建物が沢山残されている。旧ドイツ総督府は1906年に完成した、地上三階、地下一階で百五十室、日本軍司令部もここを使い、中華民国・人民共和国でも市庁とされた。他に総督邸、教会、ホテルなどドイツ風建築物は現在は観光施設として活用されている。またドイツ人が始めた青島ビールの工場は今も操業が続いており、一角にはビール博物館がある。<荻野純一他『同上書』 p.24-71>
第一次世界大戦で日本軍の攻撃
日本は1914年8月23日にドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦した。参戦と同時に日本軍はドイツの権益である山東半島に5万の大軍を上陸させ、膠州湾の青島要塞などを攻撃した。9月~11月におこなわれた青島要塞をめぐる戦争(青島戦争ともいう)は、形の上では日本・イギリス連合軍とドイツ・オーストリア連合軍の、中立を宣言した中国の国土における大国間の戦争であったが、実態は日本が山東半島のドイツ権益を奪い、大陸進出の足がかりをつかむための戦争だった。11月初めに攻城戦が始まり、1914年11月7日にドイツ軍が降伏した。日本軍の砲撃と、初めて実施された空爆によって、中国人青島市民にも多数の被害が出た。日本軍初めて飛行機を使う
青島戦争では、日本は初めて飛行機を実戦で使用した。日本軍の山東半島上陸作戦は9月2日に始まり、早くも9月5日、海軍機3機が青島市街爆撃を行った。これが日本軍が飛行機を実戦に使用した最初だった。陸軍も青島派遣航空隊が飛行機5機を出動させた。海軍機、陸軍機ともモーリス・ファルマン式が主力で、主要任務は地上部隊の援護と空中偵察であった。要塞に対する爆撃は陸上の砲弾を転用したもので堅固な要塞やドイツ軍艦には歯が立たなかったが、後方の市街地への空爆は心理的に大きなダメージを与えた。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書 p.5-7><荻野純一他『同上書』 p.90-101>参考 日本人人口と日本人学校
青島の人口をデータを見ると、次のようになっている。<出典 山本一生『青島と日本』p.22>
年 日本人 外国人 中国人 合計
1913 316 2,069 187,000 189,385
1915 3,743 590 185,078 189,411
1917 18,561 525 183,292 202,468
1919 19,998 362 192,201 212,561
1921 24,262 469 215,669 240,400
1923 15,266 404 221,246 236,916
1925 13,439 657 263,492 277,588
青島の日本人人口は日本軍の占領前には316人だったのが、占領下で急増した。最大時には約2万4千であり、1922年の中国返還後に減少している。中国人人口・総人口は増加を続けている。1913 316 2,069 187,000 189,385
1915 3,743 590 185,078 189,411
1917 18,561 525 183,292 202,468
1919 19,998 362 192,201 212,561
1921 24,262 469 215,669 240,400
1923 15,266 404 221,246 236,916
1925 13,439 657 263,492 277,588
このような増加した日本人居留民のための日本人学校が設置され、中国人向け学校では日本語教育が行われた。日本人学校の設立者は初めは青島守備軍司令官であり、1918年からは青島居留民団であった。また私立青島学院もあった。小学校(尋常小学校、国民学校)・中学校・高等女学校・工業学校などがあった。<山本一生『青島と日本 日本人教育と中国人教育』植民地教育史ブックレット 2019 風響社>、
日本軍政下の青島
1914年、青島を占領した日本軍はドイツ兵4千人を捕虜とし、日本に移送した。11月19日、日本軍は軍政を宣言、ドイツの行政機構を引き継ぎ占領政策を円滑に進めることに努めたが、街路をドイツ名から日本名に変更、日本人の土地購入をしやすくなるような税制改正を布告した。翌1915年には日本は中国袁世凱政府に対して二十一カ条の要求を突きつけその第一条で山東省のドイツ権益のすべての引き継ぎを要求した。その中には租借地以外の済南なども青島軍政下に置き、居留民の保護権など、拡大解釈された内容も含まれていた。ドイツ系銀行が撤退した後には横浜正金銀行・朝鮮銀行が日本円とリンクした銀行券を発行し、企業では海運業がまず進出した。<以下、荻野純一他『青島と山東半島』旅名人ぶっくす 2007日経BP によって構成>中国への返還
1919年、ヴェルサイユ条約で二十一ヶ条の要求が大筋で認められたことに対し、中国国内では植民地化反対を掲げた民衆運動である五・四運動が盛り上がり、「青島奪還」が叫ばれた。国際問題化した山東問題に対して、1921年11月から始まったワシントン会議において、日本も国際協調に傾き、中国に関する九カ国条約を締結して中国の主権尊重の立場をとった上で、「山東懸案に関する条約」を中国との間で締結して山東省権益を中国に返還した。これによって1922年、青島に於ける日本軍守備隊による軍政は終わりを告げた。主権が中華民国(北京政府)にもどり、青島には中国人の官庁が作られ、欧米各国の領事館も設置された。日本も領事を置き、商社や海運会社の社員も残り、日本人学校も継続した。
日中戦争から国共内戦へ
1922年に青島は中国に返還され、重要な国際的商業都市としてなおも続いた。一方、中国では1924年に国民党と共産党の国共合作(第1次)が成立し、北京の軍閥政権に対する北伐が1926年にはじまったものの、翌年に蔣介石が上海クーデタによって共産党を排除して国共合作が崩壊するという混乱が続いた。日本はこのような混乱から山東半島の居留民を保護するという理由で1927年5月以後、3度にわたる山東出兵を行った。1928年4月には国民東軍とのあいだで済南事件が起こり、国際問題化した。日本軍は1929年に撤兵したが、中国での反日感情はさらに強くなった。山東半島再侵出ををめぐる日本と中国の緊張はなおもたかまっていったが、決定的な転換点となったのは遼東半島のほうだった、1931年に満州事変が勃発、事実上、日本と中国は戦争状態となった。強引に満洲国を建国した日本軍は、中国本土への侵出の機会を探り、ついに1937年、盧溝橋事件を機に全面的な日中戦争に突入した。日中戦争勃発に伴い、青島は再び日本軍の占領下に置かれ、翌1938年から中華民国臨時政府の傀儡政権がたてられたが、事実上、日本の実効支配が行われ、その状態は1945年8月の日本降伏まで続いた。
アメリカ軍の青島進駐 1945年8月15日、日本が無条件降伏して第二次世界大戦が終結すると、アメリカは9月11日に青島に第七艦隊を入港させ、さらにグアムから海兵隊2万7千を移転させた。この素早い動きはアメリカが中国に於ける国共内戦の再発に備え、国民党(蒋介石政権)を守ることと、すでに遼東半島の旅順港に入っていたソ連海軍に対抗するためであった。
国共内戦(第2次)は共産党軍の優位に進み、1949年1月に毛沢東が北京に入城、蔣介石は引退を宣言して夫人と共にアメリカの基地となっている青島に逃げ込んだ。当時青島はアメリカ海軍の西太平洋司令部が置かれ20万人以上の将兵が駐屯する東アジア最大の基地となっていた。中国解放を進めていた共産党軍は青島の返還を要求、話し合いがつかまいまま5月に中国共産党軍は青島攻略を宣言した。同じ頃武漢、西安、上海が人民解放軍に制圧されたため、アメリカ海軍は青島撤収を決断、1949年6月2日に人民解放軍が入れ替わって入城した。国民政府は広州から重慶(10月)、成都(11月)と遷都を繰り返し、12月に台湾に逃れた。
米軍、青島から沖縄へ
(引用)人民解放軍が青島攻略を宣言した1949年5月、アメリカ大統領トルーマンは「沖縄の長期保有の方針」を承認している。沖縄諸島を日本本土から切り離して、後に「太平洋の要石」と呼ばれる本格的な基地を築く政策は、この時に本格的に始まった。日本軍国主義の遺産を徹底的に潰すことに注がれていた対日占領政策が変化したのは、朝鮮戦争の勃発に伴ったものではなく、実は青島撤退でアメリカ軍が新たな極東の軍事拠点が必要となったからであった。<荻野純一他『青島と山東半島』旅名人ぶっくす 2007日経BP p.116>
Episode 青島ビール

青島ビール
Tsingtao Beer
中国 330ml x 24 本
ビールと言えばドイツ。そうです、青島でビール醸造が始まったのは、1898年にこの地がドイツの租借地となったことによります。ドイツ人は膠州湾一帯を租借地とし、1903年に「崂山(ラオシャン)」という青島市内にある道教の聖地が、ビールの水源として適していたことから、ドイツ人がビール醸造を開始、その技術を中国人が受け継いだそうです。
第一次世界大戦が起こって1914年に日本軍が占領、ドイツ軍が撤退した後は、日本の「大日本麦酒」(キリンやサッポロの前身)が経営していました。中国独立後、中国を代表する輸出産業として、現在に続いています。 → 青島といえばビール!青島ビール博物館による