平和についての布告
1917年11月、レーニンが提唱した無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時停戦提案。1918年3月、ドイツとの単独講和ブレスト=リトフスク条約を成立させ平和を実現した。この動きに対抗して、アメリカ大統領ウィルソンの十四ヵ条、あるいはアメリカ軍・日本軍などによる革命干渉としてシベリア出兵が行われた。
1917年11月8日、レーニンが全ロシア=ソヴィエト会議で提案し、承認された布告。第一次世界大戦の交戦国に対し、「労働者・兵士・農民の代表者のソヴェートに基礎をおくところの、労働者農民の政府ほ、全交戦諸国の人民とその政府にむかって、公正で民主的な平和のための交渉を、即時開始することな提言する」とし、「無賠償※(敗戦国から賠償金を取らない)、無併合(敗戦国の領土・国民の併合をしない)による即時平和」を実現するための交渉をただちに開始することを呼びかけた。あわせて民族自決の原則と、従来のあらゆる秘密条約を廃棄し、秘密外交を否定することを声明した。
※無賠償 2016年度からの現行教科書では「無償金」としているもの(山川出版、帝国書院など)が見られ、山川用語集も「無償金」に改められた。ただ、無賠償というのも実教出版などやたの用語集には残っている。今後は「無償金」という用語が一般化すると思われる。
国際世論も秘密外交の禁止は受け入れられ、大戦後の国際社会では秘密外交は古い外交、つまり旧外交の象徴として否定され、新外交では秘密外交はなくなるはずであった。レーニンの「平和に関する布告」はそのきっかけとなった点で評価されるべきであるが、現実にはレーニンの後継者スターリン自身がその原則を無視、あるいはねじ曲げ、独ソ不可侵条約やヤルタ協定で秘密協定をつけ加えていた。
ドイツとの対外戦争を終わらせたレーニン=ボリシェヴィキ政権は国内の反革命勢力との戦いに集中して、革命の完成を目指した。それに対して危機感を抱いたイギリス、フランス、アメリカ、日本の資本主義諸国は、対ソ干渉の画策を開始し、1918年8月にチェコ軍団を救援するという口実でシベリア出兵を行うこととなる。
※無賠償 2016年度からの現行教科書では「無償金」としているもの(山川出版、帝国書院など)が見られ、山川用語集も「無償金」に改められた。ただ、無賠償というのも実教出版などやたの用語集には残っている。今後は「無償金」という用語が一般化すると思われる。
連合国などによる無視
これはドイツとの戦争を継続している連合国(協商国)およびアメリカに衝撃を与えた。連合国は11月末、パリで対策を協議し、アメリカ(ウィルソン政権)やイギリスはソヴィエト政権を承認し、新たな戦争目的を表明することを主張したがフランス(クレマンソー)、イタリアが強く反対し、結局、連合国としてはソヴィエト政権を承認せず、「平和に関する布告」と秘密条約の破棄には無視の態度となった。また、ソヴィエト政権のドイツとの単独講和に対しても、イギリスとフランスは12月に英仏秘密協定を結んで、対ドイツ戦を維持するために干渉することで合意した。さらに英仏は、シベリア東部に関しては地理的に近いアメリカと日本に干渉を要請した。こうして対ソ干渉戦争が開始され、シベリア出兵が準備されることとなった。ウィルソンの十四ヵ条
一方、ドイツは直ちにソヴィエト政権の呼びかけに答え、停戦の交渉に入った。1917年12月15日にブレスト=リトフスクで休戦協定(講和ではない)に調印し、東部戦線では停戦が実現した。アメリカ大統領ウィルソンは、ソヴィエト=ロシアの「平和についての布告」に対抗し、新たな戦争目的を表明する必要があると考え、翌年1月「十四ヵ条の原則」を発表した。秘密外交の暴露
レーニンはイギリス、フランス、アメリカが「平和に関する布告」を受け入れず、全面的な停戦に至らなかったため、ロシア帝国が関わった秘密同盟をすべて暴露した。オスマン帝国領の分割に関する秘密協定であったサイクス=ピコ協定もこのとき暴露された。国際世論も秘密外交の禁止は受け入れられ、大戦後の国際社会では秘密外交は古い外交、つまり旧外交の象徴として否定され、新外交では秘密外交はなくなるはずであった。レーニンの「平和に関する布告」はそのきっかけとなった点で評価されるべきであるが、現実にはレーニンの後継者スターリン自身がその原則を無視、あるいはねじ曲げ、独ソ不可侵条約やヤルタ協定で秘密協定をつけ加えていた。
ブレスト=リトフスク条約
ブレスト=リトフスクでの交渉は難航し、交渉に当たったトロツキーは交渉打ち切りを主張したが、レーニンは単独での講和の実現を主張し、ついに1918年3月3日にドイツとの間でブレスト=リトフスク条約を締結、「平和に関する布告」で提唱した平和を実現させた。ドイツとの対外戦争を終わらせたレーニン=ボリシェヴィキ政権は国内の反革命勢力との戦いに集中して、革命の完成を目指した。それに対して危機感を抱いたイギリス、フランス、アメリカ、日本の資本主義諸国は、対ソ干渉の画策を開始し、1918年8月にチェコ軍団を救援するという口実でシベリア出兵を行うこととなる。