シベリア出兵
1918年~22年まで行われたイギリス・フランス・アメリカ・日本などによる、ロシア革命に対する軍事干渉。1918年3月の英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。口実はシベリアに抑留されたチェコ兵捕虜の救出であったが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことであった。しかし、反革命軍が崩壊し、干渉は失敗、米英仏軍はまもなく撤退したが、最大7万以上を派兵した日本軍は1922年(樺太では25年)までシベリアに留まった。
シベリア出兵は、帝国主義諸国によるロシア革命への干渉戦争が本質であり、対ソ干渉戦争ともいわれる。またロシアではシベリア戦争、あるいはシベリア干渉戦争と言っている。
ボリシェヴィキ革命に対する共同干渉 レーニンの指導するボリシェヴィキは、資本主義体制を転覆させ議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する「過激派」として恐れられていた。第一次世界大戦の最中に、連合国の一員であったロシアでそのボリシェヴィキに指導された革命が起こり、過激派が政権を握り、しかもドイツとの即時講和を掲げて戦争から離脱し、あまつさえ過去の列強間の秘密条約を暴露するに及んで、資本主義列強はロシアの反革命勢力を支援して革命政権の弱体化・打倒を図り、ロシアをドイツとの戦争にとどまらせることが共通の利益と考えられていた。
各国の思惑
資本主義列強はソヴィエト政権を承認せず、レーニンの平和についての布告も無視することでは共同歩調をとり、さらに1918年3月、ソヴィエト政権がドイツとの単独の講和条約としてブレスト=リトフスク条約を締結するに及び、ドイツ軍の西部戦線への転用を恐れた英仏は秘密協定を結んで干渉軍派遣と分担を決定、シベリア方面ではアメリカと日本に出兵を促すこととなった。まず1918年3月にはイギリス・フランス両軍が北極海に面したムルマンスクに上陸、4月には東シベリアのウラジヴォストークにはアメリカ軍と日本軍がそれぞれ単独で上陸した。しかし、アメリカのウィルソン大統領はソヴィエト政権に同情的であり、共同出兵には消極的であった。日本にとっては日露戦争後の日露協約でロシアと分割した満州の利権が、革命によって失われることが懸念され、山県有朋・田中義一など陸軍首脳部は、むしろ好機と捉え単独出兵を主張し、それに対して原敬や牧野伸顕らはあくまでアメリカとの共同歩調が必要と主張したので、まとまらなかった。
また、ボリシェヴィキ政権を倒そうとする反革命政権はさまざまに分立し、列強内でもそのどれを支援するかで各国の思惑が異なり、共同出兵には踏み切れないでいた。
チェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)
ところがそこに、出兵に共通の「大義名分」となる事態が持ち上がった。シベリア鉄道沿線各地で苦境にあり、ボリシェヴィキと衝突しているチェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)を救出することであった。チェコスロヴァキアはオーストリア帝国の一部であったので、チェコ兵は同盟軍として動員され、東部戦線でその多数がロシア軍の捕虜となっていた。連合国はチェコスロヴァキアの独立を約束し、彼らを移動させて西部戦線に投入しようとしたが、ドイツ・オーストリアに遮断されているのでやむなく遠路、シベリア鉄道でウラジヴォストークに運び、そこから船でヨーロッパに移動することになっていた。しかし、劣悪な状態でシベリア鉄道で移動するあいだに、同じようにヨーロッパを目指していたドイツ・オーストリア捕虜との偶発的衝突から、ボリシェヴィキとの間で武力衝突事件に発展し、その後各地で衝突が頻発していた。多国籍軍の共同出兵
1918年8月、チェコ兵捕虜救出を目的としたシベリア出兵はアメリカが日本に働きかけるという形となり、日米連合軍が結成された。アメリカは日本の単独出兵を怖れ、それを共同出兵の枠内に抑え込む意図があった。日米両国軍を中核にイギリス、フランス、イタリア、カナダ、中国の軍隊が参加した多国籍軍による干渉行動として開始された。日本のシベリア出兵
日本の政治指導者の中には、単独でも出兵を強行して将来の大陸進出に備えようとする軍を先頭とした動きと、あくまでアメリカとの共同を重視しその枠内での出兵にとどめようという原敬に代表される意見が対立していた。しかも1918年夏の日本は、7月末から富山で始まった米騒動が高揚し、ついに寺内内閣が倒れ、内閣が交代するという混乱が続いていた。最初の政党内閣の首班となった原敬は、形はアメリカとの共同出兵を守りながら、実質において協定以上の兵力を注入し独自行動をするという陸軍の動きを黙認した。1918年8月2日~3日にアメリカ、日本もシベリア出兵を宣言、日米は兵力を同数の1万2千人とし、出兵範囲をウラジヴォストークに限定するという約束であった。日本軍は1918年8月2日にウラジヴォストークに上陸、参謀本部の独断で増派を続け、北満派遣軍を含めて10月末には7万2千の大軍となった。アメリカは7000人の兵力にとどまった。
日本軍は当初はコサックの反革命軍を指揮するセミョーノフを支援したが、途中からイギリスが支援してオムスクに樹立されたコルチャークを首班とする反革命政府を支援するなど、大局的な戦略に一貫性を欠いていた。派遣された兵士は極寒の地でソヴィエト政権を支持するパルチザンのゲリラ戦に苦戦を強いられ、たびたび部隊が全滅するというのが実情であったが、その事実は国内では伏せられていた。
シベリアからの撤兵
1918年11月にはドイツ軍が完全に降伏、第一次世界大戦が終結したため、ドイツ軍との戦争を継続するためのチェコ兵捕虜の救出という干渉目的は意味がなくなり、チェコ兵も順次帰国した。干渉軍は、ソヴィエト政権に敵対する反革命軍支援だけが目的となったが、その最大勢力であったオムスクのコルチャーク軍も1919年3月に大敗し、コルチャーク自身が20年に処刑されて完全に潰えたため、シベリア出兵の意味はまったくなくなった。イギリス、フランスの干渉軍はそれぞれ1919年中に撤退、アメリカも1920年までには撤兵したが、日本軍は事後処理のためとして駐留を続け、1920年2月にニコライエフスク事件の悲劇が発生した。日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。1922年のワシントン会議でアメリカからの圧力があり、同年10月25日にはシベリア本土から干渉軍を引き揚げた。こうして5年以上にわたる日本のシベリア出兵は、具体的な成果のまったくないまま終結し、北樺太での駐兵は日ソ基本条約で日本がソ連を承認し日ソ国交が開かれた1925年1月20日まで続いた。ニコライエフスク事件
イギリス・フランス干渉軍が撤退した後も占領を続けた日本軍と、ロシアのパルチザン(革命派のゲリラ部隊)との衝突事件が起こり、多数の日本兵と居留民が殺害されるというニコライエフスク事件(日本では尼港事件と言われる)が起こった。1920年2月、アムール川の河口にあり、北洋漁業の基地であったニコライエフスク(日本名で尼港)に駐屯した日本の守備隊と居留民がパルチザンと衝突、日本人122名が捕虜となった。1920年5月、日本の救援部隊が到着するとパルチザンは捕虜の日本人と反革命派のすべてを殺害して撤退した。日本ではボリシェヴィキ=過激派の残虐行為として報道され、尼港事件と言われてロシアに対する敵愾心が高揚した。日本は報復として対岸の北樺太(カラフト)を占領した。ソヴィエト側はこの事件の責任追及を行い、パルチザンの司令官を処刑、事件の原因は日本軍がロシア側の軍使を殺害したため、とした。日本はシベリア本土からは1922年10月に撤退したが、北樺太占領(狙いは石油資源であった)は1925年まで継続、日本がソ連を承認し、日ソ基本条約が締結されたのに伴ってようやく撤兵した。
シベリア出兵は何だったか
シベリア出兵は、北樺太からの撤退までとすると7年間にわたる日本軍の海外派兵であった。宣戦布告もなく始まったこの戦争での日本軍の戦死者は3~4千人であったが、零下30度という極寒の地で凍傷となった死傷者が1万人に達した。戦費は10億円を越えた<三野正洋他『20世紀の戦争派兵』1995 朝日ソノラマ p.174>。結果的に「無名の出師(名分のない出征、の意味)」と言われ、何も得ることがなく、国民的な支持もない、無謀な戦争をなぜ行ったか。陸軍首脳部の腹は伝統的な北進論、環日本海勢力圏論などとともに将来の極寒地での戦争の予行演習ということがあったと思われる。参考 二つの参考図書
朝日ジャーナルで1971年1月から72年12月までシベリア出兵に関する長大なルポ文学『派兵』を書いた高橋治が、シベリア出兵から奇しくも百年にあたる2015年に亡くなられた。その『派兵』第2部のあとがきでこう言っている。(引用)奇妙なことに、学校の歴史教育で教えられた記憶がない。その上、身辺に参考資料というべきものが殆ど見当たらない。それでいて百科事典によれば、当時の金で十億円の巨費と、解決までに七年の歳月を要したとある。知らないで通りすぎてしまうにはあまりに大きすぎる事件だった。……<高橋治『派兵』1973 朝日新聞社 第2部 あとがき>同書は全4冊、シベリア出兵の経緯をたどり、特に日本軍兵士の生の声を採訪し、ロシアやチェコまで行ってロシア兵やチェコ兵の生き残りにインタビューを試みていて、読み応えがある。
シベリア出兵に関する基本文献であった細谷千博(一橋大学名誉教授)の『シベリア出兵の史的研究』は2005年に岩波現代文庫で再刊され、手軽に読めるようになった。シベリア出兵をめぐる、各国の思惑、日本の軍部と政府の二重外交の弊害などを詳細に論じている。これらを読むと、海外派兵がいかにその国の行き方を誤らせることになるか、痛感させられる。細谷氏の本は1955年に初版が刊行され、2005年に再刊されたが、その時にはイラク戦争での自衛隊の派遣が問題になっていた。細谷氏はそれにも警鐘を鳴らしているが、シベリア出兵から100年目にあたる2015年には、安倍政権によって安全保障関連法が改訂され、日本が戦後、憲法上の制約があるとして否定してきた集団的自衛権を認めるという変化があった。戦後日本の安全保障政策が転換されたわけだが、このような時期だからこそ、我々日本の歴史の貴重な体験としてシベリア出兵を振り返っておくことは重要な意味がある。
(引用)シベリア出兵の歴史は、日本軍部にとっては失敗の記録であり、戦前はその研究はいわばタブー視され、この戦争において日本が対外選択面でおかした誤りや軍事行動の醜悪な一面に研究のメスを入れることは、少なかった。しかしこの戦争は、次の世代にとって学ぶべき教訓を実に多く含んでいる。たとえば、シベリア出兵の歴史について深い知識を持つ軍人であれば、日中戦争の際、それを活用し、反省の材料にしえたはずである。いったん派兵すると、撤兵がいかに困難な業になるか、シベリア出兵の際の単独出兵の歴史がこれをよく物語っている。太平洋戦争に突入した1941年、戦争の回避をもとめた日米交渉も、中国からの日本軍の撤兵問題で難航、ついに暗礁に乗り上げ、戦争となった。さらにいうと、シベリア出兵の歴史に含まれる教訓は、今日イラク戦争を考える上でも役に立つはずである。<細谷一博『シベリア出兵の史的研究』2005 岩波現代文庫 あとがき>
米騒動
1918年夏。富山で始まり、全国に広がった米価高騰に反対する民衆暴動。日本軍のシベリア出兵の時期に起こり、寺内内閣を退陣に追い込み、日本最初の本格的政党内閣として原敬内閣に交代させた。日本の大正デモクラシーの一つの表れであった。
異常な米価上昇
1918年8月3日(大正7年)、前日に発令されたシベリア出兵命令に基づき、小倉の第十二師団に動員令が発せられ、8日に門司・宇品の両港から出発した。しかしこの時、日本は外征にはおよそふさわしくない米騒動と言われる大騒乱のさなかにあった。第一次世界大戦下の好景気によって引きおこされたインフレーションのために物価が急上昇し、その中でも米価の騰貴が著しかった。インフレに加えて、商工業の発達に伴う米消費人口の急増や、酒造米の増加で需要が激増したにもかかわらず、寄生地主制(地主は在村せず耕作を小作人に任せている体制)のもとで米穀の生産が停滞し、供給が追いつかなかったことが、米価暴騰をよんだ。しかも、一層の高騰を見越して地主が米を売り惜しみ、米商人が買い占めと投機に走ったあために、米価の騰貴は拍車をかけれた。寺内内閣は米価の調節をはかったが、その政策はことごとく失敗した。
東京の白米小売価格は一石(約180リットル)あたりで、1917年には20円52銭であったが、18年4月には32円98銭、6月には34円20銭へと値上がりした。さらにシベリア出兵が確実になると、買い占めと騰貴がいちだんとすすみ、米価は大暴騰し、出兵宣言のあった8月2日以降は、1日ごとに石あたり1円、2円、さらに4円という狂騰となった、大阪では8月5日に40円をこえ、9日には53円になった。
米価の狂乱に、民衆は飢餓の不安と恐怖にとらえられ、民心は動揺し、日本社会に不穏の気が充満した。それはついに、富山県の新川海岸地帯の民衆の暴動によって点火され、全国を覆う大暴動となって爆発した。<江口圭一『大系日本の歴史14』二つの世界大戦 小学館ライブラリー1993 p.72-73>
米騒動の勃発
米騒動の発端は、7月23日朝の富山県魚津港の主婦46名が、米価が上がるのは米を他地方に移出するためだと考え、米の汽船への積み込みをやめさせようと海岸に集合したところ、警官に解散させられた事件とされている。最近の研究では、それ以前の7月上旬から米の移出阻止の民衆行動が魚津町とその周辺で始まっていたことが明らかになっている。シベリア出兵が開始されのと同じ1918年8月3日以降、西水橋町・東水橋町・滑川町で、数百名の婦女が一団となって資産家や米屋に押しかけ、米の移出禁止と安売り、救済を要求する騒ぎが連夜繰り返され、これが全国紙によって「越中女房一揆」として報じられた。
全国へのひろがり
8月8日、騒動は富山県外に飛び火し、岡山・和歌山・高松などで同様の騒ぎが続発した。さらに10日夜以降、名古屋と京都、さらに大阪・神戸で数万の群衆が連夜にわたり騒動を起こし打ちこわし、略奪、焼き討ち、乱闘がくりかえされ、軍隊が動員されて鎮圧するという騒ぎが続いた。13日には東京でも大騒動となり、関東各地に伝播した。シベリア出兵の総司令官として大谷軍司令官が宇品港を出発した14日に、全国17都府県の79ヵ所が騒動の渦中にあり、そのうち30ヵ所以上で軍隊が派遣され、米騒動は絶頂に達した。以後、米騒動は農村部に舞台を移し、2ヶ月にわたって続き、9月に入ってようやく沈静化した。米騒動は一道三府38県の38市153町177村、計368ヵ所に及んだ(騒動が起きなかったのは青森、岩手、秋田、栃木、沖縄のみ)。参加人員は、当局の不完全な推計でも約70万人を数えたが、実際はこれをはるかにうわまわると思われる。しかも特別の指導や動員があったわけではない民衆運動が自然発生的に全国で起こったことは、当時大きな衝撃を以て迎えられた。警察力はいたるところで麻痺し、軍隊を出動させて鎮圧した。動員された兵力は10万に達していたが、その過半数は広島・山口・福岡で占められ、門司・宇品から出港するシベリア出兵対策の意味があったことを示している。<以上、江口『上掲書』 p.74-75>
参考 米騒動発祥の地 魚津
富山県魚津市では、7月23日を米騒動の始まった記念日としており、関連する遺跡を保存し、記念館を建造している。この日は魚津の主婦たちが、米の移出を阻止しようとして港に集まり、警官隊と衝突した日である。 → 魚津市観光案内公式ホームページ現在では7月23日の前から同様の動きは始まっていたことが分かっており、また「越中女房一揆」として全国に知られるようになったのは8月3日の富山県中新川郡水橋町で数百名の女性が資産家や米屋を襲撃した事件の報道からであり、それが契機となって全国に米騒動が広がった。米騒動は「7月23日に魚津で始まった」といって間違いではないが、それは米騒動のなかの一コマであり、その後2ヶ月にわたって、全国で繰り広げられた民衆運動だったことを忘れないようにしよう。
日本最初の政党内閣成立へ
米騒動は、政府当局にとって、ロシア革命の影響などで高まった労働運動、普選運動などとともに、大きな脅威として受け取られた。寺内内閣(軍部内閣)はシベリア出兵・米騒動に対して言論統制を行い、新聞報道を規制しようとした。しかし、1915年に発表された吉野作造の民本主義の思想など大正デモクラシーの高まりを受けて言論の自由を主張する新聞各紙が寺内内閣批判を繰り返し、特に国民に対して軍隊を動員したことへの非難が高まった。ついに、9月21日、寺内内閣は総辞職し、元老山県有朋も民心を安定させるためにはやむなし、と判断して、26日、政友会総裁原敬に組閣の大命を下すことになった。原敬内閣は、陸海外相以外の全大臣を政友会員で占めるという、日本最初の本格的な政党内閣として発足することとなった。