英ソ通商協定
新経済政策に転換したソヴィエト=ロシアが、1921年にイギリスと結んだ通商協定。ソ連の資本主義国との最初の通商関係が開かれた。
第2次ロシア革命の経過の中で、ソヴィエト=ロシアがそれまでの戦時共産主義から新経済政策に転換し、農業での一定の私有地での生産、企業の自由を認めたレーニンは、経済の活発化を促すための外国との貿易を再開することを望んだ。ボリシェヴィキ政府代表がロンドンを訪れてイギリスの財界指導者と接触した結果、イギリスは正式なソヴィエト政権の承認には踏み切らなかったものの、貿易関係を再開することで同意した。その結果、1921年3月にイギリスとソヴィエト=ロシアの間で英ソ通商協定が成立し、、相互に通商代表部を設置された。イギリス側には世界経済においてアメリカに主導権を奪われていたため、ロシアを新たな市場として期待したのだった。ただし、イギリスとしては、ボリシェヴィキ政府がアジアのイギリス植民地での独立運動に対する支援などをしないことを条件とすることは忘れなかった。
その後の英ソ関係
まず経済関係での交渉をもつようになった両国は、イギリスにマクドナルド労働党内閣が成立したことよって、1924年に正式な国交を開くことになった。これは1922年のドイツとのラパロ条約に次ぐ、西欧諸国のソ連の承認となった。一方でコミンテルンを通じての世界革命をめざすという建前との矛盾は、やがてスターリンの出現によって一国社会主義路線がとられ、世界革命が棚上げされることで解消されることになる。しかし、イギリス国内では保守党などの中にボリシェヴィキ革命に対する恐怖心と、インドなどでの反英闘争に対するソ連の支援に対する反発も根強く、保守党政権に変わると、国交は断絶されなかったものの実質的な関係は絶たれることとなった。協定の意味
(引用)レーニンがモスクワでネップを党大会に紹介したちょうど一週間後の1921年3月16日、イギリス=ソヴィエト通商協定が調印されたのである。この通商協定は、ソヴェトの政策における突破口であり転換点であるとして、正当にも歓迎された。両国は相互の通商を妨げぬものとし、正式の外交上の承認がなかったため(大使の代わりに)公的通商代表部を交換することに同意した。イギリスの観点からして最も重要な条項は、両国が、相手国に対抗する「行為、企て」、「直接・間接の公的宣伝」を「控える」と約したものであった。「いかなる形にもせよイギリスの利益あるいはイギリス帝国に敵対的行為をアジア諸民族に唆す行為や宣伝」が特筆された。・・・これらはソヴェトの政策における強調の変化を予告した。世界革命に関する宣言はひき続き行われたが、意識的にせよ無意識的にせよ、ますます、正常な事務処理に影響しないお定まりの儀式とみなされるようになった。外務人民委員部(外務省に当たる)の政策とコミンテルンのそれとの間の潜在的非両立性が表面化し始めたのである。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1975 岩波現代文庫 2000年刊 p.62>