ヴェルサイユ体制
第一次世界大戦後、パリ講和会議で1919年に成立したヴェルサイユ条約のもとでの国際体制。ドイツ軍国主義の再興を防止するとともに、社会主義の台頭に対する資本主義諸国の結束を意図した。しかし敗戦国ドイツでは領土縮小、軍備制限など苛酷な処置に対する不満が強く、1930年代にヴェルサイユ体制打倒を掲げるナチスが台頭した。またアメリカ・ソ連が国際連盟に加盟しなかった(ソ連は1934年に加盟)ことにより、軍縮などの課題に取り組むことが不十分であったため、1936年には実質的に崩壊し、1939年には第二次世界大戦が勃発した。
第一次世界大戦後の1919年6月28日に成立したヴェルサイユ条約を中心として創り出されたヨーロッパを中心とする資本主義世界の国際秩序。国際連盟の発足、ロカルノ条約・不戦条約、ワシントン・ロンドンの軍縮会議など、「国際協調 」が進められたが、帝国主義列強間の世界再分割のもとでの平和維持という矛盾する基本的性格から、ファシズム国家の台頭や世界恐慌という事態を生み出し、1936年のドイツのロカルノ条約破棄によって崩壊した。
ヴェルサイユ体制の基本姿勢
- イギリス・フランスなどの戦勝国によるドイツなど敗戦国の再起を抑止する体制であること。
特にイギリス・フランスの二国は、戦勝国の立場から敗戦国ドイツに対する過酷な条件を負わせてその再起を抑止すると共に、賠償金を自国の戦後復興に充てること、をめざした。 - 社会主義国ソ連を警戒し、その勢力の拡大を防止する体制であること。
大戦中に成立した社会主義国ソヴィエト=ロシアに対しては、資本主義陣営として強い警戒心を抱き、反共産主義陣営としての結束をめざす側面があった。 - 世界再分割後の植民地支配の維持と民族運動の抑圧する体制であること。
旧ドイツ殖民地を分割し、さらにオスマン帝国領を委任統治という形で分割したイギリス・フランスが、その再分割を維持することをめざした。そのためには、この再分割に不満なイタリアや日本を抑え込み、殖民地における民族闘争を抑圧する体制として機能することとなった。アジアでは中国の五・四運動は明確なヴェルサイユ体制を拒否する運動であった。
ヴェルサイユ体制の補完
国際連盟は集団安全保障の理念に基づいて、第一次大戦後の平和維持に大きな責任を持ったが、さまざまな制約の下で十分な役割を果たすことが出来なかった。国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、中国大陸・太平洋方面での日本の伸張によって国益が損なわれることを恐れ、国際連盟の舞台とは別にワシントン会議を開催し、ヴェルサイユ体制のアジア・太平洋版であるワシントン体制を構築することを進めた。ヴェルサイユ体制の崩壊
特にヨーロッパにおいてはドイツ国内に苛酷な条件を押しつけられたことに対する反発が当初から強かった。ドイツのシュトレーゼマンによる国際協調路線が採られている間は一定の安定がもたらされたが、1929年の世界恐慌以降は、急速に協調路線が崩れ、ドイツ国内にナチズムが台頭することとなった。また、及び大戦に乗じて帝国主義的膨張をはたした日本、イタリアのファシズムの台頭もヴェルサイユ体制を不安定なものにした。1933年にドイツで「ヴェルサイユ体制打破」をかかげるヒトラー内閣が成立し、1936年3月7日にはロカルノ条約を破棄してラインラント進駐を強行したことによってヴェルサイユ体制およびその地域的安全保障体制であったロカルノ体制は崩壊する。