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ヨーロッパの統合

第一次大戦後に始まり、第二次大戦後に具体化し、1950年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が発足、1957年のローマ条約でヨーロッパ経済共同体(EEC)・ヨーロッパ原子力共同体が結成された。それらが1967年に統合されてヨーロッパ共同体(EC)となり、さらに1993年にマーストリヒト条約でヨーロッパ連合(EU)となった。2002年に共通通貨ユーロの使用が始まって経済統合が進み、さらに2009年にリスボン条約が発効して政治的統合も一定の枠組みでできあがった。イギリスが国民投票で離脱を決め、2020年に正式離脱し、EUは大きな曲がり角に来ている。

第一次大戦後の統合運動

 ヨーロッパ統合の源流は、第一次世界大戦後に遡ることが出来る。1922年にオーストリアの外交官であったクーデンホーフ=カレルギーは『パン=ヨーロッパ』を著し、大戦後に明らかになったアメリカ合衆国の優位と、ソ連というあたらしい勢力に飲み込まれないためには、ヨーロッパ諸国は統合されヨーロッパ合衆国になる必要がある、と説いた。
ブリアンの統合案 また不戦条約の提唱者であったフランスの外相ブリアンはその思想に共鳴し、1929年にヨーロッパ統一案を国際連盟の総会に諮った。ブリアン案は、国際連盟の地域的連合として「ヨーロッパ会議」を設け、紛争の調停、集団安全保障を実現すること、ヨーロッパ全域の関税障壁を廃止して共同市場化することなど、微温的なものであったがヨーロッパ各国の同意を得られなかった。ドイツは参加の条件としてヴェルサイユ条約による差別撤廃を要求し、イタリアは植民地の共同管理も持ち出した。またイギリスもイギリス連邦の特恵関税と両立しないことを理由に反対した。結局、1929年に世界恐慌が勃発し、イギリス・フランスはブロック経済の形成に進み、ドイツ・イタリアは枢軸国家を形成し、ヨーロッパ統合案は霧散した。

第二次世界大戦後の動き

 第二次世界大戦で徹底的な打撃を受けたヨーロッパの経済は、アメリカのマーシャル=プランの資金で復興への道筋ができ、一方で東ヨーロッパ諸国が次々と社会主義化しソ連の衛星国となっていくという事態が進む中、前イギリス首相チャーチルは1946年9月、チューリッヒ大学で講演し、ヨーロッパ連合の呼びかけを行った。
ヨーロッパの復興 そのような気運の中でチェコスロヴァキアのクーデターで共産党政権が成立したのを機に、1948年3月、ブリュッセル条約が成立して、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの5ヵ国が西ヨーロッパ連合を結成した。東西冷戦が深刻化すると、アメリカの関与が強まり、マーシャル=プランの受け入れ機構としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が、軍事機構としての北大西洋条約機構(NATO)が結成されたが、これらはアメリカ主導のものであった。
シューマン=プラン アメリカ主導のヨーロッパ統合の動き対して、ヨーロッパの自主的な統合の気運が次に現れてくる。その最初が1950年5月9日にフランス外相シューマンの提唱したシューマン=プランによって、1950年6月にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。これはフランス国境に近い西ドイツのルール地方ザール地方の石炭・鉄鉱石などの資源と工業施設を、隣接する諸国で管理運営することことを通じ、長く独仏紛争の原因となっていた国境紛争を回避し、ヨーロッパの安定をもたらすものと期待された。シューマンが1950年にシューマンプランを提唱した5月9日は、現在、「ヨーロッパの日」として記念日とされている。

ヨーロッパ統合の進展

ローマ条約 1957年にはローマ条約が成立し、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国がヨーロッパ経済共同体(EEC)ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を発足させた。特にEEC結成により、ヨーロッパは一つの経済的まとまりを持つ共同市場を目指したが、イギリスは不参加を表明し、むしろそれに対抗して1960年にEEC加盟国以外の7ヵ国を組織し、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成した。
ヨーロッパ共同体 1967年7月、従来のECSC・EEC・EURATOMの三者が統合してヨーロッパ共同体(EC)が結成された。結成当初はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国が参加した。この頃になるとEC結成諸国の経済的優位が明確となり、イギリスも加盟を申請するようになったが、フランスのド=ゴール大統領の反対で実現できなかった。ド=ゴールは、イギリスが一方でアメリカ合衆国との経済協力を重視していることを警戒した。
拡大EC 1971年ドル=ショックはそれまでのアメリカ経済の絶対的な優位が崩れたことを意味していた。そのような中で、イギリスもヨーロッパ経済への依存度が強まり、EC側も一方で台頭が目立ちはじめたアジアの日本経済に対抗する必要もあり、イギリスの加盟を認めた。その結果、1973年にはそれまで加盟を拒否されていたイギリスの加盟が認められ、同時にアイルランド・デンマークも加盟して1973年1月に拡大ECとなった。同年12月には第4次中東戦争の勃発に伴い、第1次オイル=ショックが起き、世界経済の動揺が続いたが、それは同時に地域的経済統合の必要性を強めることになり、周辺の経済力の弱い国々のECへの加盟要請が増加することになった。
 このうして1980年代にはギリシア、ポルトガル、スペインが加盟して12ヵ国体制となった。EC加盟国が増加し、ヨーロッパ経済の統合が進んだ結果、1970年代の世界経済は、アメリカ合衆国一極から、経済統合を進めたヨーロッパ、高度経済成長をとげた日本を加えた三極構造に転換していった。

ヨーロッパ統合の具体化

 1979年に欧州議会(ヨーロッパ議会)が初めて開催され、加盟諸国の直接選挙によって議員が選出された。欧州議会は当初は欧州委員会の諮問機関に過ぎず立法権を持たなかったが、後のマーストリヒト条約で権限が強化される。また同年、ヨーロッパの通貨統合をめざして欧州通貨制度(EMS)に関する協定が成立、ヨーロッパ各国間の為替の安定のための協力態勢を作ると共に単一通貨導入を目指す準備に入った。
単一欧州議定書とシェンゲン協定 1980年代のヨーロッパ統合は、経済力を強めた西ドイツとフランスの二国が主導した。この二国の主導のもとで、1985年、EC加盟国首脳会議において合意が成立、単一欧州議定書によって加盟国の市場を1992年までに統合することとなった(1987年7月に発効)。これはヨーロッパを共同市場とすることで国境を事実なくし、ヒト・モノ・カネの自由な移動を認めるという、国境を越えた地域経済の統合をめざす画期的な取り組みであった。その具体化の一環として、1985年にシェンゲン協定が締結され、域内でのパスポート審査の廃止、交通ビザ発行などを実現させた。
冷戦終結と東西ドイツの統一 この間、世界は1989年の東欧革命から一気に東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が解放され、1990年には東西ドイツが統一され、1991年末にはソ連が解体されるという激変が生じた。東西冷戦の消滅に伴い、世界経済の枠組みも変化し、特に統一を達成したドイツのヨーロッパにおける主導的な立場が強まると共に、イギリス、フランスなどではドイツに対する警戒感も生じてきた。

ヨーロッパ連合の成立

 東西冷戦終結後、ヨーロッパ共同体(EC)は加盟国を増やすとともに、その統合の内容を経済面から政治面、さらに安全保障面まで拡げ、ヨーロッパでの存在意義を深めていった。そのうえで、1992年にEC首脳会議において、単一欧州議定書の規定に基づき、市場統合・通貨統合とともに安全保障についても共通政策を目指してマーストリヒト条約に合意、1993年11月1日に発効した。この条約を根拠として、現在のヨーロッパ連合(EU)が発足した。EU発足時は12ヵ国であったが、1995年にスウェーデン、フィンランド、オーストリアが加盟し15ヵ国となった。
ユーロの流通開始 EUの共通通貨として、ユーロを導入は1999年に始まった。実験的な流通をへて、2002年1月1日に当時の加盟15ヵ国のうち、12ヵ国が自国通貨を停止して、共通通貨ユーロを採用することが開始された。イギリス、スウェーデン、デンマークの三国は参加しなかったもの、の流通が始まり、経済面での統合が一段と進んだ。

ヨーロッパ統合の曲がり角

 同時にその時期は東西ドイツの統一から東西冷戦が終結し、東ヨーロッパ諸国が次々と自由化されて資本主義国家に転換し、解体したソ連から生まれた国々にも同様の動きが拡がった。これらの国々にヨーロッパ連合への加盟の動きが強まり、2004年にEUの東方拡大が一気に行われた。しかしそのようなEUの拡大は経済力の乏しい加盟国に、豊かな国々の富が流出することになるという不満が生じた。さらに冷戦終結後のイスラーム圏での民族紛争からヨーロッパへの移民が増加し、その受け入れを巡ってEU加盟諸国に対立が生じるようになった。EU憲法の批准がフランス、オランダの国民投票で否定され、大きな軌道修正を行って政治的な面での単一国家化と言った面を薄め、2009年12月1日リスボン条約を成立させた。
 2010年代に入ると、加盟各国でのEU懐疑派が台頭、その中でイギリスが2016年の国民投票でEU離脱案が過半数を超えて承認され、2020年2月1日イギリスのEU離脱が実現した。こうして21世紀には「ヨーロッパの統合」は大きな曲がり角を迎えている。
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