デ=ヴァレラ
アイルランドの独立運動家、政治家。1916年のイースター蜂起、1919年からのイギリスとの戦争、1922年からの内戦のいずれにおいても、アイルランドの完全独立を掲げて戦った。1921年のイギリスとの妥協によるアイルランド自由国には反対し、ながく抵抗運動を続け、1932年に政権に就き、1937年に憲法を改正してイギリス国王との関係を廃止して実質独立を実現、国号をエールに変更した。
イーモン=デ=ヴァレラ(1882~1975)はアイルランドの独立運動の指導者。1916年のイースター蜂起に加わり、逮捕されたが、母がアメリカ人であったのでアメリカで生まれ、彼自身もアメリカ国籍を持つ二重国籍者であったため処刑を免れた。 → アイルランド問題(20世紀)
イギリスとの戦争が続く中で次第に厭戦気分も広がったためひそかに和平交渉が始まり、妥協の産物としてイギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣は北アイルランドを除いてアイルランド自由国を自治領とすることを認めた。イギリスとアイルランドは1921年12月にイギリス=アイルランド条約を締結して戦争を終結させた
そのためアイルランドは条約を容認して成立したアイルランド自由国政府と、デ=ヴァレラの指導する反自由国軍との間で内戦が始まった。この内乱でマイケル=コリンズは暗殺されたが、その背後にはデ=ヴァレラがいたとも言われている。
政権を握ってからのデ=ヴァレラは、かつての原則的な姿勢は消えて現実的となり、北アイルランドの分離という現実を受け入れてイギリスとも貿易交渉を行い、またかつて共に戦ったIRAにたいしては、治安を乱す危険な存在として厳しく取り締まるようになった。
この姿勢は戦後の国際社会で非難され、しばらくは国際的な孤立をやむなくした。それでも国内政治での人気は続き、1948年まで16年間首相を務めた。1948年、長期政権に対する国民の支持が失われ、選挙で敗れ首相を交替したがその後も1959~73年は大統領を務めた。1949年、デ=ヴァレラ退陣後の連合政権の下で再び憲法が改正され、国号は「アイルランド共和国」に改められたが、同時にイギリス連邦からの正式な離脱が決まり、形式的にも最終的な独立国家としての形式が完成した。
デ=ヴァレラは、アイルランド独立運動の指導者の中で、例外的に長寿であり、1916年から1973年の長期にわたり、時には騒乱の中心人物、革命の指導者となり、原理的な共和主義者、民族主義者としてふるまいながら、時に現実的な妥協、変心を見せ、長期政権を維持した。そこでその評価もアイルランド独立の英雄の一人という見方から、「二枚舌のマキャヴェリスト」という評価まで毀誉褒貶が激しいようだ。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.76-79/鈴木良平『アイルランド建国の英雄たち―1916年復活祭蜂起を中心に』2003 彩流社 p.251~>
アイルランド独立宣言
その後、シン=フェイン党に加わり、1918年の選挙でシン=フェイン党を勝利に導き、自らも当選したがイギリスの議会には参加せず、1919年1月21日にはダブリンで独自の議会を開催してアイルランド共和国の独立を宣言した。そのため、自治を認めないイギリスとのアイルランド独立戦争に突入、ゲリラ戦を展開した。この1921年夏までの戦いをイギリス=アイルランド戦争(英・アイ戦争)ともいう。戦争指導はマイケル=コリンズが担当し、デ=ヴァレラは政治部門を統括し、シン=フェイン党を指導した。イギリスとの戦争が続く中で次第に厭戦気分も広がったためひそかに和平交渉が始まり、妥協の産物としてイギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣は北アイルランドを除いてアイルランド自由国を自治領とすることを認めた。イギリスとアイルランドは1921年12月にイギリス=アイルランド条約を締結して戦争を終結させた
アイルランドの内戦
この条約を廻って、受け入れるか拒否するかでシン=フェイン党内の対立が深刻になった。交渉に当たったマイケル=コリンズやシン=フェイン党の創設者グリフィスらは、これを将来の独立への一歩として受け入れることを主張、イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国を樹立した。それに対してデ=ヴァレラは北アイルランドの分離に反対し、全アイルランドの完全独立、しかもイギリス国王に対する服従を強いられる自治国としての独立に強く反発した。妥協をせずに本来の理想を追求しようという原理主義的な姿勢を貫いたが少数派となったためシン=フェイン党から分離し、アイルランド共和党(フィアナ・フォイル)を結成、自由国政府には加わらなかった。そのためアイルランドは条約を容認して成立したアイルランド自由国政府と、デ=ヴァレラの指導する反自由国軍との間で内戦が始まった。この内乱でマイケル=コリンズは暗殺されたが、その背後にはデ=ヴァレラがいたとも言われている。
エールに国号変更
その後イギリスとの対決姿勢を守っていた。しかし、次第に武装闘争方針や、議会不参加方針を改め、民衆の指示時をうけるようになり、1937年には選挙で勝利してアイルランド自由国の首相となった。政権を握ると、まず新憲法を制定して国号をエール(アイルランドの固有の言語であるゲール語でアイルランドのことを意味する)とし、さらに国王の代理としての総督を廃止し、実質的な主権国家と資して独立した。ただし、形式的にはイギリス連邦に属することは維持された。またデ=ヴァレラは国際連盟の議長として小国の理念を国際社会で主張するなど、国際社会でも独自の活躍をした。政権を握ってからのデ=ヴァレラは、かつての原則的な姿勢は消えて現実的となり、北アイルランドの分離という現実を受け入れてイギリスとも貿易交渉を行い、またかつて共に戦ったIRAにたいしては、治安を乱す危険な存在として厳しく取り締まるようになった。
第二次世界大戦とアイルランド
第二次世界大戦ではチャーチルやF=ローズヴェルトの働きかけにもかかわらず中立を守り(スペインのフランコ政権と同様に)独自の道を歩んだ(アイルランド国民の中には義勇兵として連合国軍に加わるものも多数いた)。チャーチルは戦争参加を条件に北アイルランドのアイルランドへの併合を認めることまで提案したが、デ=ヴァレラはそれさえ断った。デ=ヴァレラの目論見はナチス=ドイツが勝利することを想定し、その際にイギリスに協力しなかった見返りとして北アイルランドも併合が実現できると考えていたともいわれている。この姿勢は戦後の国際社会で非難され、しばらくは国際的な孤立をやむなくした。それでも国内政治での人気は続き、1948年まで16年間首相を務めた。1948年、長期政権に対する国民の支持が失われ、選挙で敗れ首相を交替したがその後も1959~73年は大統領を務めた。1949年、デ=ヴァレラ退陣後の連合政権の下で再び憲法が改正され、国号は「アイルランド共和国」に改められたが、同時にイギリス連邦からの正式な離脱が決まり、形式的にも最終的な独立国家としての形式が完成した。
デ=ヴァレラは、アイルランド独立運動の指導者の中で、例外的に長寿であり、1916年から1973年の長期にわたり、時には騒乱の中心人物、革命の指導者となり、原理的な共和主義者、民族主義者としてふるまいながら、時に現実的な妥協、変心を見せ、長期政権を維持した。そこでその評価もアイルランド独立の英雄の一人という見方から、「二枚舌のマキャヴェリスト」という評価まで毀誉褒貶が激しいようだ。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.76-79/鈴木良平『アイルランド建国の英雄たち―1916年復活祭蜂起を中心に』2003 彩流社 p.251~>