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イースター蜂起

第一次世界大戦中の1916年、アイルランドで起きたイギリスからの分離独立を目ざす武装蜂起。アイルランド共和主義同盟(IRB)など急進派が中心になって蜂起、イギリス政府軍に厳しく鎮圧されたが、アイルランド独立戦争への引き金となった。シン=フェイン党はこの蜂起には党としては加わらなかったが、鎮圧された後に民衆の支持が集まり、アイルランド独立運動の中心となった。

 アイルランドは1801年にイングランドに併合されて以来、本国に最も近い植民地として支配されてきた。特にイギリス人地主によるアイルランド農民を小作人とした土地支配は、アイルランドの貧困の原因となり、アイルランド人の中に強い不満が蓄積され、アイルランド問題が深刻になっていった。

アイルランド自治法の成立と実施延期

 イギリス政府はその対策として、アイルランドに一定の自治を認めるアイルランド自治法を議会に度々提案したが、そのつど上院の反対などで実現しないまま経過した。1911年に議会改革によって下院で3回可決されれば、上院で否決されても成立するという下院優位のルールが成立したため、1914年に第3次案が成立した。しかしおりからの第一次世界大戦勃発により、実施が延期されてしまった。多くのアイルランド人はやむを得ないと考えたが、この事態に反発したアイルランド独立運動の急進派が1916年2月24日、イースター明けに蜂起した。 → アイルランド(4)

急進派の蜂起

 主導したのは急進派のアイルランド共和主義同盟(IRB)という秘密組織で反イギリス王室と共和政の実現を掲げて武装闘争を辞さないグループだった。1867年にフィニアンという名称で蜂起して失敗していた。その後身であるパトリック=ピアスによって率いられたIRBは、アイルランド自治法の施行延期の機会を捉えて、1916年の復活祭=イースター明けの2月24日(計画ではイースター当日の日曜日に蜂起するはずだったが翌日になってしまった)に男女約1000名がダブリン市内で武装蜂起した。彼らは「アイルランド共和国」の独立を宣言、全土に反乱が広がると目論んでいたが、蜂起は一部に限られほぼ1週間で鎮圧されてしまった。アイルランド人の多くは世界大戦でドイツと戦うイギリスへの愛国心を抱いており、戦争中に分裂すべきでないという意識から蜂起は民衆の支持を得られずに終わった。
 ところが、イギリスから派遣されたアイルランド軍最高司令官が事件の首謀者を軍法会議にかけてたて続けに処刑してしまった。この拙劣で強硬な措置がアイルランド人の潜在的な反英感情に火をつけてしまった。首謀者の多くが処刑された中で、デ=ヴァレラは母がアメリカ人でアメリカ国籍も持っていたので処刑を免れた。

蜂起鎮圧後のシン=フェイン党の躍進

 シン=フェイン党はこの蜂起には一部以外、組織的な参加はしなかった。この段階ではシン=フェイン党の主流は急進的な蜂起には反対し、幅広い民衆の支持を得るためにイギリスとも妥協も必要と考えており、一部に原理的な共和主義者も含んでいたが、その実態は政党というより一つの組織に過ぎなかった(単にシン=フェインともいう)。当初はその支持は広がっていなかったが、イースター蜂起の首謀者に対するイギリス当局の過剰な弾圧は、イギリスに対する憎しみを強め、シン=フェイン党に対する支持が急速に高まった。
 第一次世界大戦後の1918年末の総選挙で、デ=ヴァレラら蜂起の生き残りを含むシン=フェイン党が多数当選して躍進するという変化が起こった。しかも当選議員は、ウェストミンスターでのイギリス議会に出席せず、ダブリンに独自のアイルランド議会を樹立し、イギリス政府に公然と反旗をひるがえした。それに対してイギリスは軍隊を派遣、アイルランド側も義勇軍を組織し、1919年1月、アイルランド独立戦争(イギリス=アイルランド戦争あるいは英・アイ戦争ともいう)が勃発した。この戦いの中で、アイルランド義勇兵はアイルランド共和国軍(IRA)に組織されていった。 → 20世紀のアイルランド問題

参考 イースター蜂起とシン=フェイン党の関係

 日本の高校世界史教科書、山川出版の『詳説世界史B』ではアイルランド自治法に対して「イギリス人の多い北アイルランドはこれに反対して、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党と対立したため、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。シン=フェイン党などは反発して、一部の独立強硬派は1916年に武装蜂起(イースター蜂起)をおこしたが鎮圧された。」<2016年版 p.311-312>となっている。しかし、正確にはシン=フェイン党はイースター蜂起には参加していない(組織としては)。一部のメンバーは参加したようだが、蜂起の中心勢力はパトリック=ピアスが率いるアイルランド共和主義同盟(IRB)であった。後にイースター蜂起はシン=フェイン党が起こした、と言われるようになったが、シン=フェイン党がアイルランド独立運動を推進する代表勢力となるのはイースター蜂起が鎮圧されてからのことだった。この件に関しては、シン=フェイン党の項を参照。